七巻感想
奉天会戦。グリッペンベルグを失脚させた同じ作戦を「やろう」と言ったクロパトキンは相当の厚顔。
その決心も二転三転し、判断遅れにより戦局を見誤った。
児玉、松川の立てた「たら、れば」作戦に見事ハマったクロパトキン。
だが本来の自軍勢力を冷静に把握していれば、負けることはなかった。全滅寸前の日本軍を前に退却したクロパトキン。
だがこの勝利では講和に持ち込むことが出来なかった。駐米大使高平の大失言。だがこの酷評も乃木同様、司馬遼太郎の書き過ぎ要素が若干あるようだ(コチラ)
かくして、バルチック艦隊と連合艦隊との決戦により、日露戦争の決着が付くという舞台が整った。
その決着は最終第八巻で・・・・
しかしバルチック艦隊の航路を以下に示すが、とんでもない長旅。
敗けたとはいえ、よくぞ辿り着けたものだ。
坂の上の雲 七 あらすじ
会戦
明治38(1905)年。
極めて偶然ながら、クロパトキンの総司令部でもこの時期一大攻撃が計画されていた。この一月末、ロシア軍は黒溝台会戦で、弱かった左翼にあと一押しで勝てるところを、クロパトキンの狼狽で奉天に退却したが、若い参謀たちの間では、それを悔やむ声が高かった。
ロシア作戦部長エウエルト少将(日本軍の松川に相当)は、退却後も日本軍の動向を探り、日本軍が補強した左翼を再び元に戻しているのを知った。
日本軍の甘さを突き、ロシア軍の総力をあげて攻撃する事を参謀総長サハロフ(児玉に相当)に具申したエウエルト。
「大いに正統的にやろうじゃないか」と計画立案を支持したサハロフ。
元々あの戦いは、グリッペンベルグがクロパトキンの鼻をあかすために立てた作戦。
それを支援することで勝てた筈が、しなかったクロパトキン。
参謀総長サハロフが、エウエルト少将の作った計画書をクロパトキン大将に見せた時、彼は「賛成しない」と言った。
「それよりも沈旦堡(日本側で言う黒溝台)をもう一度押そう」
それはさきにグリッペンベルグ大将がやったもの。クロパトキンの本音は(あの作戦は良かったが、グリッペンベルグがやることは好まない)
早速沈旦堡付近を偵察させ、防備が薄い事を確認した。
日本軍の規模よりはるかに大きな攻勢を受ければ、好古の旅団は全滅するであろう。
だがそのクロパトキンの気がにわかに(例によって)変わった。
彼は旅順をおとした乃木軍十万(実は三万そこそこ)の行方が気になっていた。
-乃木軍が右方から展開し、左回りで背後に出て来る-という不安。
これは日本軍の計画でもある、鴨緑江軍の情報が混同したもの。
この軍の主力が元々乃木軍麾下の第十一師団であり、無理はない。
クロパトキンは2月19日、各軍司令官と参謀を招集した。
日本軍も同じ日に同様の会議を行っている。
乃木軍に対する不安のため作戦を中止したいが、既に一部の部隊は動き出している。
懸念を話す事によって、司令官たちの口から中止の声を出させたい。
だが第二軍司令官カウリバルス大将が、思い過ごしだと反発。
この日は既定方針通りとなった。
だがその後クロパトキンは各司令官に「配慮的作戦」として決戦を3月まで延期せよと通達。それで増援兵力の到着を待つが、士気を振起するため沈旦堡の攻撃は行う、といったもの。
各司令部は混乱。3月になれば氷が溶けて渡河が困難になる。
皆に突き上げられて原案に戻したクロパトキン。
だがこの数日間の空白が、作戦の致命傷になった。
結局攻撃開始は2月25日となったが、日本軍の鴨緑江軍が攻撃開始したのが2月23日。
これによって史上最大となる奉天会戦の火ぶたが切られた。
この時の鴨緑江軍主体は老兵ばかりの後備第一師団だったが、23日には第十一師団が合流。
この時の、ロシア軍防御陣地の意外な頑強さに皆「小旅順」と呼び始めて萎縮した日本軍。そして再び行われる銃剣突撃。
この攻撃が敗北した時それに気付いたのは、後備第一師団の参謀長橋本勝太郎中佐。犠牲が大きい白兵突撃ではなく、敵の死角となる位置を見出し、その方面から砲兵力を利用して攻撃を再開。
この攻撃によりロシア軍は陣地を捨てて清河城へ退却した。
その後、この清河城にも火を放ってロシア軍は大嶺まで後退した。
この鴨緑江軍に対しクロパトキンが麾下最大の機動部隊、レネンカンプ支隊を投入した。
乃木軍十万が、わが左翼へ出て来た、というクロパトキンの錯覚。
また、退路を断たれるかもしれないという恐怖が大兵力を東部戦線に移動させる行動を生んだ。鴨緑江軍にとっては途方もない災難。
鴨緑江軍が戦っている時、乃木軍はまだ動いていない。
鴨緑江軍が清河城を占領したとの報を聞き、1月27日に運動開始した乃木軍。それぞれの前進目標に向かって進み始めた。
以後連日小規模な戦闘が続いた。
会戦三日目、東方で驚くほどの砲声があがった。鴨緑江軍に続いて黒木軍、野津軍が正面攻撃を始めたのだ。北上する乃木軍。
会戦の点描:陸軍工兵二等卒飛田定四朗の手記。
陸軍歩兵中尉猪熊敬一郎の手記。
この会戦で主に使われた三一式速射野砲の来歴。
そして旅順を陥としたあの28サンチ榴弾砲。これを児玉は奉天へ持って行った、旅順の18門のうち8門が移設された。
日本軍の性格を物語る「事件」
戦闘を避けつつ敵の側背へ出るという、迂回運動を遂げるべく北進する乃木軍。日本軍としての作戦が果たしてうまく行くのか。
乃木軍司令部の津野田は台本通りの動きを続けている。
第九師団の戦闘行軍は悲惨になって来た。この師団は乃木軍が左(西方)へと大回りした後一転して敵の背後に回り込む時の旋回軸をつとめる。
だがクロパトキンは期待したほど狼狽せず、新勢力が乃木軍だと分かると、これへ大兵力を投入した。
第九師団とロシア軍の延翼運動の仕掛け合い。
これが繰り返されれば物量に増すロシアに負ける。
だが後退せず、何とか前進を続けたことで日本軍の勝利となった。
3月2日、乃木軍の右にいる奥軍は、難戦の上やっと前面の敵を撃破した。
この激闘の結果、ロシア軍は退却したが、総司令部はこの退路を断て、とわめく如く命じた。だが電話が繋がらず。
これがのちに、乃木が激怒して電話線を切ったとの説も出た。
好古は秋山支隊を率いて当初奥軍に属していたが、乃木軍北進の先鋒として本軍の隷下に入り、奉天北方の鉄道を破壊せよとの命を受けた。このため、元々乃木軍にいた騎兵第二旅団との合同が必要。
こちらの団長は田村久井少尉。好古の方が少し古参だった。
好古は千五百騎を率いて、大房身を目指す途中で田村支隊と合流。そのまま北進した。その後小規模な敵を倒しながら大房身に近づく頃、恐るべき敵、ビルゲル将軍率いる新着の一個師団が南下して来た。
装具、兵器とも新品の兵たち。不期遭遇戦が始まった。
ビルゲルは日本の大騎兵団が来た、と思った。事実日本軍がこの満州で持っている騎兵のほとんどが好古のもとに集中していた。
この不期遭遇戦は「大房身の戦い」として記録的な戦闘となる。
騎兵による襲撃を愛した好古だが、彼自身が理想とする騎兵戦をやったことがなかった。
今回も防衛戦闘に徹した。騎兵を馬から下ろし、防衛陣地と火力を以て敵をなぎ倒す。勝つより「負けない」方法を選んだ。
猛烈な火力戦が4時間続いた。ロシア歩兵一個中隊が迫った時などは、騎兵砲と機関銃が火を吹き、その半数を倒した。
旅順におけるステッセルの立場を取った好古。
執拗なロシア軍の突撃は前後三回に及んだが、好古は火力で撃退した。陽が傾いた頃、ロシア軍は攻撃を断念して退却を始めた。
見事な退却戦に感嘆する好古。
追撃戦を行うのが常道だが、好古は兵を使わず砲弾を以て追撃した。ロシア軍は大潰乱を起こした。
敵のほとんどは退却したが、一部だけは大房身北部に留まり砲撃を続けた。
「なんだと思う」と参謀を持たない好古は副官に聞いた。
翌朝反撃か、退却援護か、個人的信念か。
「明日、もう一度やって来るだろうな」と好古は言った。
だがロシア軍は来なかった。秋山支隊は、さかんな北進を始めた。
北進につれてロシア軍の層は厚くなり、抵抗が激しい。
乃木軍主力はそれに苦しんだが、好古支隊がその火力と速力で4日夕刻には奉天西方に出た。
「予は包囲せられたり」とクロパトキンが悲痛な電報を打ったのは3月7日のことだが、好古の北進にひどく動揺した。
逆に3月4日。乃木軍指令部は初めて前途に希望を抱いた。
そして誤った敵情判断により、一度は敵潰滅のための攻撃命令を出したが撤回。敵は退却どころか決戦準備を整えていた。
奉天における日露決戦は、この時からスタートしたと言っていい。
乃木軍に対して第二軍カウリバルス大将が、歩兵だけで五十大隊という膨大な兵力を集中し、乃木軍の左翼に対して5日正午に攻撃命令を下した。
乃木軍司令部はこの方面にほとんど配慮していなかった。カウリバルス大将は第一師団の大石橋守備隊をほとんど一瞬で潰滅させた。
この時の大石橋の日本兵の潰乱ぶりはひどいものであり、隊では幹部がことごとく戦死して兵のみになり逃げるしかなかったという。
乃木はこの報に永田砲兵旅団と歩兵旅団で救援した。
火力により大石橋の惨状は救われた。
以後連日この様な状況が乃木軍を見舞った。
個々の戦いで日本軍が優勢だったかは疑問。
だがその個々の戦いでクロパトキンが迷走した。
鴨緑江軍の攻勢終末、彼らが悲惨な状況になった時、2月28日に日本軍の北進がクロパトキンに伝わる(西部に出現した乃木軍)。
それで3月1日になって東部に送った兵力を西部に回した。
第一軍は行軍ばかりさせられて、戦闘に参加出来なかった。
クロパトキンの無用な兵力移動で、全滅の危機から救われた部隊が無数にあった。
3月7日に起きたロシア軍の退却。
退却
ロシア軍が乃木軍に対して本格的攻勢に出たのは3月6日。
大石橋はかろうじて持ち直したが、その翌々日第九師団(金沢)は強大な敵のため惨況に陥った。
更に3月9日、乃木軍の第一師団正面は逆襲するロシア軍で逆巻き立つ様であった。乃木軍の大潰乱と大敗走が行われたのはこの時。
日本陸軍において初めて発生したもので、詳しい描写はされて来なかった。
北進する乃木軍の戦闘は日を追う毎に凄惨になった。
だが司令部からは叱責の電話しかかからない。
本来増派が先だが、総司令部にもその余力がない。
日本側の作戦の際どさはそこにあった。
乃木軍状況の一例。後備旅団のの一部が潰走した時、旅団長が白刃を掲げて敗走を食い止めようとしたが制止出来ず、兵を斬った。
そこまで切迫した。
奥軍の厳しさも同等だったが、こちらに潰走はなかった。
名古屋の吉岡連隊は全滅したが、その死体は前進もしくは射撃姿勢をとっていたという。
いずれの戦線においてもロシア軍は堅牢であった。
だが7日夜になって入った急報がクロパトキンを大きく動揺させた。
「奉天北方に日本軍六千が進出」 この実態は好古の三千であり、特に強い攻勢でもなかった。だがクロパトキンは「鉄道線路を遮断される」と思った。好古もやりたかったが、手が出ない状況。
自ら幻覚を作り出し「渾河(こんが)の線まで退却せよ」と命じた。
日露戦争を通じて最大の「なぞ」がこの時から始まる。
この命令を聞いて第一軍指令官のリネウィッチ大将と、第三軍司令官ビリデルリンク大将は伝令将校に、それぞれの表現で継続の願いを伝えた。
防御ののち、機をみて反撃するということで、譲らないクロパトキン。
連戦十余日にわたった奉天会戦。
日本軍は遮二無二攻勢を続け、ロシア軍はひたすら防戦。
その防戦は大部分の戦線で成功。
防戦の成功例でいえばロシア軍の方が優勢。
が、3月8日になって形勢に変化が現れた。
クロパトキンの退却命令があらゆる戦線で反映され、整然と退却が行われた。
翌日奉天の地に、大風塵が発生した。
これは日露にとって幸運、不運双方をもたらした。
この大風塵の中、クロパトキンは「いっそ鉄嶺まで総退却しよう」と決心した。鉄嶺は狭隘地にあって、陣地としての工事は終わっており、攻めるとすれば十万の兵が必要。
だが忠実なサハロフ総参謀長も、さすがについて行けない。
渾河までの退却なら、まだ決戦意思を捨ててないと言えるが、鉄嶺は奉天の北70キロ。要するに奉天を捨てて逃げるということ。
クロパトキンは、自分を正当化するためにあらゆる理由付けを話した。
サハロフはロシア的慣例に従い、新方針に同調し立案した。
発令されたのは同日7時15分。
第三軍は日没と共に渾河の陣地から撤退し鉄嶺に向かう。
第二軍は第三軍の撤退支援しながら西方の敵を抑えつつ退却。
第一軍は第三軍後衛の撤退を援護しなから合流。
しかるのちに全軍退却。
この撤退でもクロパトキンは乃木軍を恐れ、彼らを押し返すための「虎の子」の予備隊であるムイロフ混成軍団とグレゴフ騎兵支隊を残した。
乃木軍と秋山支隊が、本会戦の終盤で惨戦を繰り返したのはこれがためだった。
一方日本軍はこの少し前、各戦線は膠着し乃木軍の前衛は潰乱、退却を繰り返す状況。
児玉が参謀の松川を捕まえて、既定の作戦への疑問をぶつけた。
同時期に松川も同じことを考えており、二人でその計画を練った。
攻撃内容は大きく変更された。
苦戦を続けている乃木軍左翼に野津軍(第四軍)を投入し奉天北方に進出。第一軍は野津軍の穴を埋めつつ北方からの脅威に備える。
野津軍の追撃運動は物凄いものだった。
日本軍最大の火力を持ち、兵の疲労も少ない。
この師団は沙河堡と漢城堡を3月7日に奪い、9日深夜に渾河を渡り敵を夜襲。
高地から見た光景の異様さ。二種類に分かれたロシア軍の運動。
一方は乃木軍との激闘。他方は線路に沿って北方への退却。
野津軍の第六師団が奉天に一番乗りし、退却するロシア軍に突進した。この師団は終日戦い抜き、翌11日夕刻には奉天を押さえた。
一万越えのロシア人が投降。
奉天作戦の勝敗は、10日夜に決定した。
この夜、ロシア軍の後衛軍団は道という道が人馬、砲車で満ち大混雑。そこに日本軍のあらゆる火砲が攻撃した。ロシア史上類のない敗戦。この夜だけでロシア人の投降は二万を超えた。
彼らはクロパトキンに棄てられた。
日本軍はさらに追撃し、16日に仙台の第二師団が鉄嶺城内に入り、梅沢旅団も鉄嶺停車場に進入。
クロパトキンとその主力は更に北方の公主嶺まで逃げたが、日本軍の余力がなく追撃には至らなかった。
この会戦における日本軍の死傷は5万以上。
ロシア軍損害は退却時にもっとも甚だしかった。
捕虜三万を含め損害は17万にのぼった。
いったい奉天作戦は日本にとって勝利だったのか。
判断基準として、作戦目的を達成しえたかがある。負けはしなかったが、勝ったとは言い難い。敵の作戦企図をくじいた点では大勝利だが、クロパトキンが最終的に引いたハルピン決戦をくじき去ることは出来ていない。
クロパトキンは金州・南山以来連敗し、北へ北へと逃げたが、ロシアにおける伝統的作戦である「退却によって敵の消耗を強いて最後に勝つ」に従っているとも言える。
それを恐れて奉天では敵を殲滅しようとしたが、叶わなかった。
「このあたりが、切りじゃ」と児玉は松川に言った。
東京へ行き講和の段取りを進めるつもり。
東京の要人が戦勝気分で講和工作を忘れるのが心配。
定義はどうあれ、奉天会戦での日本の勝利を世界中の新聞が認めた。それをロシア国民も次第に知り始めた。
革命家たちは喜び、ロシア政府は窮地に追い込まれた。
陸軍大臣のサハロフは敗北を公言。クロパトキンを解任し第一軍司令官のリネウィッチ大将大将を昇格して総指令官とした。
クロパトキンは第一軍司令官に降格。
攻勢主義の猛将を後任にしたことで、将来の決戦を託した。
大山を訪れ決心を話す児玉。
「それでは児玉サン、よかごっお願いしもす」と言った大山。
名目を「奉天会戦の報告」という事で随員二名を連れて東京に向かった児玉。
児玉が東京に着いたのは3月28日。極秘帰京だったので出迎えは参謀本部次長の長岡外史のみ。いきなり長岡を怒鳴り付ける。
火消しが肝心なのに、ぼやぼやしちょるのは馬鹿の証拠・・・
参謀本部で総長の山県有朋にその一件を切り出した。
陸軍大臣寺内正毅も同席。
次いで元老伊藤博文、桂首相、山本権兵衛と回り、陸軍首脳の秘密会議が開かれた。
児玉の腹案は 1)ハルピンの占領 2)韓国内からのロシア兵一掃 3)樺太島の占領。
その後重臣たちを回り「この戦争をなんとかしろ」と言い続けた児玉。
日本の陸戦能力は尽きようとしており、政略で片付けるしかない。
英国の情報収集能力について。
英国には「世界の代表者」とも称される新聞「タイムズ」がある。東郷艦隊が旅順を封鎖している時、汽船をチャーターして無線機を積み込み、それをあちこち出没させて現場の記事を新聞にした。
日本海軍は「タイムズ」のみに自由取材を許した。
旅順口の不幸な触雷事故についても、国内には秘密にした海軍だが「タイムズ」が報道して世界周知となった。
この奉天会戦についても「タイムズ」は予想記事を書き、児玉が言った様な内容を世界に報じた(奉天以後大軍を北進させうるか疑問)
日本は外交上、出来る限りの手を打った。外相小村寿太郎としての正規ルート以外に、米国へは金子堅太郎、英国へは末松謙澄(けんちょう)を行かせていた。
金子はルーズヴェルトとハーヴァード大でのクラスメイトであり、講和への口火を切る役。こちらは成功した。
末松は文学・法学両博士であり逓信大臣、内務大臣も務めたという華やかな経歴だが、外交上は役に立たなかった。
「タイムズ」の紙面が少し日本に対して冷淡になったと感じる政府。
日本の連勝を-これでいいのか-といった印象。
元々英国は同盟についても、ロシアに対する抑止力として考えたに過ぎない。ロシアに体当たりして自滅するのが理想だったが、甲斐々々しい働きを見せる。
さすがに露骨には言わないが「日本は国力を失いつつある」といった表現になった。
奉天会戦の結果を知って狼狽したのはフランス。既に露仏同盟が存在していたが、政府が勝手に結んだこので、知識階層には極めて不人気だった。「ロシア国債不買運動」も起きている。
また奉天のロシア敗北は、フランスの政略的な軍事力低下を意味した。
日露講和に寄与する事で苦境を脱しようとした仏外務省は、ロシアのウィッテと話し合った外相デルカッセを使って、日本の駐仏公使本野一郎に、領土と償金支払いを免ずれば、講和してもいいというロシアの意向を伝えた。
戦敗国が戦勝国に償金を払い、土地を割くのは欧州での慣例。
それをアジアの日本には適用しないという肚。保留した本野は後に小村訓令を携え、談判についての拘束は受けないと返答。
デルカッセは以後の仲介を諦めた。
「日露戦争はカイゼルが製造した」とウィッテが回顧録に書いている。
ドイツの皇帝(カイゼル)ウィルヘルム二世。名宰相ビスマルクの後任に意のままになる首相を選び、その側近を自分で選んだ。議会に対して機略を用いて操縦した。
彼は、既に強大な陸軍国であるドイツを海軍国にしたかった。無類の機械好きで戦争、軍隊に夢中になる性格を、この民族は持っていた。
国内に良質の鉄を持ち、重工業が勃興する中、クルップの兵器工場はカイゼルの野望を満たす十分な能力を持っていた。
彼は、いとこにあたるロシアのニコライ二世に働きかけ「君は太平洋を制覇したまえ」との甘言を吹き込んだ。
だがウィッテが言うほどカイゼルの影響があったという事はなく、それはこの長い物語で既に触れすぎるほど触れた。
さてカイゼル。
ウィッテとデルカッセの接触、本野公使との密談を聞いて驚いた。
彼の妄想は「フランスもイギリスも、シナを分け捕りにしようとしている」
ドイツは既に獲得した膠州湾以外にも多くの土地を得て、大ドイツの偉大さを誇示したかった。
カイゼルは駐米大使を介し、ルーズヴェルトに「日、露、英、仏四者でシナ分割の陰謀が企てられている」と訓電した。
アメリカは元々シナの植民地化には興味なかったため、ロシアは日本との開戦後米国の新聞社を買収して露骨な半日論を書かせた。
そんな時期に米国入りした金子は任務に自信をなくしていた。シカゴでの新聞はことごとくロシアびいき。
だがその後ルーズヴェルト大統領に会って事情は一変。日本の役に立ちたいというルーズヴェルトは「日本は勝つ」と断言した。
その裏の確かな数値比較。
ルーズヴェルトはのちに「日本の弁護士」とまで言われたが、基本はアメリカの利害を中心に考えていた。
ロシアのアジア支配を日本で押さえるという意図は英国と同じ。
勝ちは望んだが日本が勝ちすぎるのは望まなかった。
もし過当要求があれば削る。
のちに彼は、日本を仮想敵とする遠洋決戦戦略を立てるに至る。
日本と日本人は国際社会の中で「無視されるか」「気味悪がられるか」どちらかだった。
日本が講和において賠償を欲した時、ある米新聞が「日本は人類の血を商売道具にする」と言って罵倒した。
薩摩藩が英国艦隊と戦って負けた時も賠償金を払わされ、残金も明治国家が払った。
それが日本の戦勝によりそれを求めた時には糾弾される。
「人類の血」とは白人のこと。
そんな中でルーズヴェルト大統領は公平を守った。
日本海海戦前のある書簡で、日本人を文明の重要な分子として尊重したい、と書いた。
この講和は、アメリカ史上における世界政策的行動の最初の事件だった。この場になってもルーズヴェルトは会場を米国にすることをためらい、結局イギリスのポーツマスに設定された。
ドイツのカイゼルはその後もアメリカに手紙を出し続け、ルーズヴェルトをして「偏執病者の観がある」と言わしめた。
小村寿太郎はこの件に敏感になり金子に、ドイツが土地の横取りに関する邪心があるかとの確認を求めた。
ルーズヴェルトに、その親書を見せて欲しいと申し出る金子。
ルーズヴェルトは拒否し、カイゼルはそういう人物ではないと言うが、悲愴な思いに満たされている金子が更に懇願。
ついに折れて秘密親書を見せたルーズヴェルト。
読み終わって安堵した金子はルーズヴェルトに詫びた。
「独帝に邪心なし」。
この電報ほど日本の首脳を安堵させたものはなかった。
電報が明治帝にも届けられたことでも、その喜びが分かる。
ルーズヴェルトはロシアの駐米大使カシニーにも講和の勧告をした。
「カシニーの性格」と言われるほどの倨傲で頑質な性格。個人としては悪い人物ではなかったが、公人になると仮面をかぶった。
その彼が「個人としては講和に賛成だが皇帝が許さない」と言った。
専制の恐ろしさというものだろう。
この時期、日本の駐米大使高平小五郎にルーズヴェルトが打明けた話。
米駐露大使が皇帝に謁見してアメリカを利用されよと言った時、あいにく隣りに皇后がいたため沈黙した。皇后とは、後に怪僧ラスプーチンに踊らされ、宮廷を革命に叩き込んだ女性。
皇后の継戦論の最大のものは、あのバルチック艦隊が日本に鉄槌を加えるのを信じたから。
ルーズヴェルトは、国力欠乏にも関わらず日本人が慢心しているのを感じ始めていた。
新聞は戦勝報道で煽るうちに、悲惨な錯覚を抱いた。
ルーズヴェルトの言葉では、彼の講和あっせんに対し奉天会戦の勝利が日本人を逆上させ、これを退けた。そしてロシアは償金支払いや割地を嫌い、ロジェストウェンスキーの艦隊が日本海軍に打撃を与えるのを期待している。
ルーズヴェルトは、調停というものの困難さをこの時ほど感じた事はなかったであろう。
日本の外交にも粗漏があった。
それは先にも出た駐米公使の高平小五郎。
彼は外相小村寿太郎から訓令を受けると「日本は海戦を避けたいのだ」と途方もない憶測をした。
それを国務長官のタフトに「日本政府は臆病になっており、バルチック艦隊の来航以前に講和を結びたい肚らしい」と言った。
一種の迎合だったかも知れないが、タフトはこれに驚き、出先のルーズヴェルトに手紙を書いた。
それを読んで、日本海軍の実力評価を変えたルーズヴェルト。
元々彼は日本海軍の実力を高く評価しており、自身が海軍省の次官をしていた経歴から金子に作戦論までぶった事がある。
その彼に高平が失言した。
高平のこの言葉が、タフトからロシア側に洩れ、彼らが講和に応じないと言って来た。
調停の可能性は遠のき、海戦の結果を待って仲裁に入ると決めたルーズヴェルト。
東へ
ロジェストウェンスキーとその大艦隊は「世界始まって以来、軍艦が通ったためしのない航路」とポリトゥスキーが残した航路を東へ進んでいた。
この航路は誰が助言したものでもなく、ロジェストウェンスキー自身が決めた。
フランス海軍省は三つの航路を助言したが、彼は独自の航路をとった。
二十日間に亘るインド洋横断を経て、スマトラ島北端が見えた。
この艦隊はマラッカ海峡を抜けようとしていた。
マラッカ海峡はスマトラ島と英領マレー半島に挟まれており、英国人に見てくれという様なもの。世界中の新聞がバルチック艦隊のありかを報道し、それは日本の水雷艇群の存在も想像させた。
誤報、虚報に振り回された末に、艦隊は無事海峡を通過した。
艦隊がシンガポール沖に達したのは4月8日。
ここは英国の支配下にあり、人目をしのぶことは出来ない。
また日本海軍が待ち伏せしているという心配が、常に艦隊を支配しており、何かあるたびに各艦に騒ぎが起こった。
カムラン湾に近いあたりで石炭積み込みを行い、4月14日にカムラン湾へ入った。
ここは南ベトナム(仏領)東岸にある湾で、ほとんど港湾施設がない。
ここに入って四日目にフランスの軍艦が来てロジェストウェンスキーと挨拶を交わした。
それから五日後再び彼らがやって来て、フランス本国の命令により港を貸せないと言って来た。英、日の抗議だという。
バルチック艦隊は4月22日、カムラン湾を去り、その後26日まで近くを漂った後、同湾から北方のヴァン・フォン湾に潜り込んだ。
だがここでも追い立てられ、外洋で漂白した艦隊。
結局ロジェストウェンスキーの艦隊は、この海域で二十余日間という長時間漂白した。
ロジェストウェンスキーは巡洋艦を介してサイゴンと本国間でさかんに交信し、ネボガトフ少将の艦隊は待てないと訴えたが、来るのは「待て」という返事ばかり。
足手まといになる老朽艦隊をなぜ待たなくてはならないのか。
だが海軍省の見解は違った。戦艦は戦艦。
その巨砲は大いに威力を発揮する。何の知識も持たないアレクサンドラ皇后が、最もそれに賛成しており、皇帝も中止の意思はない。
この老朽艦隊司令官ネボガトフ少将は55歳だが、白いひげのため高齢に見える。人格的魅力によりボスとして敬愛されていた。
リバウ港を出たのは2月25日。
中型艦のみだったためスエズ運河のコースを進んだ。
彼はロジェストウェンスキーと合流するまで、ほとんど事故を起こさずに済んだが、この老朽艦隊が戦場でどんな意味があるかが悩みだった。だがそれは外に出さず。
もう一つの困り事はロジェストウェンスキーの艦隊がどこにいるかということ。
合流せよとは言われても、本隊がどこにいるかは誰も教えてくれない。
この艦隊が5月4日、シンガポール付近に達した時、小さな汽艇に乗った大男を収容した。
これが驚いたことにロシア帝国海軍の水兵だった。名はワシーリィ・フョードロウィッチ・バーブシキンといった。
旅順艦隊の巡洋艦バヤーンの機関兵で、日本軍の砲撃により全身18ヶ所の傷を追って、ステッセルの降伏と共に捕虜になったが、廃兵として本国送還の船に乗せられシンガポールまで来た。
そこでロシア領事の見舞いを受けた時に、シンガポール沖を通るネボガトフ艦隊に情報を届ける必要があると聞いて志願した。
汽艇を雇って出たものの三日間漂流した後に見つけられた。
情報は「東郷がボルネオ近海で待ち伏せている?」というもの。
自分の様な老朽艦を狙うのに払う国際紛争のリスクを考えると、現実感がない。
「出会ったら、出会ったまでだ」と言ったネボガトフ。
それよりも水兵バーブシキンが、ロジェストウェンスキーの艦隊の艦隊がカムラン湾かヴァン・フォン湾にいると聞いていたのが有り難かった。
ネボガトフ艦隊がマラッカ海峡を過ぎた後も、ロジェストウェンスキー艦隊はヴァン・フォン湾近くに留まっていた。世界も注目するこの愚行を強要しているのは皇帝ニコライ二世とその皇后アレクサンドラ。
ネボガトフ艦隊がいつどこを通って来るか。
彼らは何も知らされていない。
ところがフランスは、このネボガトフ艦隊の位置を即日で認識していた。同盟国からその程度の事を聞く努力もしないロシア外務省。
5月9日、ネボガトフ艦隊の巡洋艦モノマーフ搭載の無線機との交信に成功した旗艦スワロフ。
ネボガトフ艦隊の艦影を見つけた兵員たち。「浮かぶアイロン」などとは言っても、この7ケ月という孤独の中での大きな喜びだった。
「あの煙突を塗らさにゃならんな」とロジェストウェンスキー。なぜか自分の全ての艦隊の煙突を黄色く塗らせていた。
日本側はこれのおかげで敵味方の識別に苦労しなかった。
幕僚にそれを命じたロジェストウェンスキー。
信じがたい事だが、作戦についてロジェストウェンスキーがネボガトフ少将に指示した事項は、これのみだった。
旗艦スワロフに食事を招待されたネボガトフとその幕僚。
今後の針路及び作戦について、ロジェストウェンスキーからは出ず、編成見直しだけが参謀長経由で出された。
結果から見れば、ネボガトフ艦隊は捨てられたも同然。日本艦隊とどう戦うか、どこに居るかはおろか、針路についての指示もない。
要するに、黒い煙突を黄色くせよ、と言われただけであった。
艦影
バルチック艦隊がヴァン・フォン湾を出たのは5月14日。
ネボガトフ艦隊と合流したため総数50隻、排水量16万トン強という巨大なものとなった。
フランス外相デルカッセの諜報秘書パレオログの5月16日付の日記に、驚くべき記載がある。ロジェストウェンスキーが出港後開封する事で明らかになる艦隊航路--朝鮮海峡を経てウラジオストックへ向かう--。
この針路の謎ほど日本側を悩ましたものはなかった。
この哨戒活動のため真之は朝鮮済州島から佐世保までを区画してその一つ一つに哨戒艦船を配置。総数73隻になった。
ロジェストウェンスキーは、出港前各幕僚に密封命令を渡していた(ネボガトフ少将は除く)。
出港後彼らはその封を切った。
「対馬へ」と書かれていた。それも全力をあげて。
バルチック艦隊がどこを通るかについては、日本側の首脳たちも確信が持てない。
秋山真之も、八分どおりは対馬海峡という公算を持っていたが、作戦立案者だけに、人相が変わるほど憔悴した。
対馬を通るとすれば、もう現れてもいいはず、と思う真之だが、第四駆逐艦指令の鈴木貫太郎中佐が、彼らが途中行う石炭補給などを考えればもっと遅くなると、とりなした。
ある時、バルチック艦隊は拿捕した英国汽船を太平洋まわりで単独航海させ、日本側の混乱を誘おうとした。
多少の効果はあったが、この汽船は途中で座礁。
5月23日にかけてバルチック艦隊は東シナ海に入っていた。
その23日、第二戦艦隊司令官フェリケルザム少将が病死した。
旗艦オスラービアからその死が旗信号で告げられた時、ロジェストウェンスキーは、その死の秘匿を命じた。士気の低下を恐れたのだが、彼は第二艦隊司令官の後任を選ぶもともしなかった。
指揮官のいない軍隊というものを思いついた史上唯一の人物がロジェストウェンスキー。
第二戦艦戦隊は「オスラービア」「シソイ・ウェリーキー」「ナワーリン」「アドミラル・ナヒーモフ」の四隻。みな俊足船で、作戦行動を考えれば、司令官なしでの運用は考えられない。
またロジェストウェンスキーは、フェリケルザムの死をネボガトフ少将にも伝えなかった。
各軍の司令長官が死ねば、即代行者の設定が必要になる。
ロジェストウェンスキーにはその概念がなかった節がある。
それらを考えると、ロジェストウェンスキーは自分だけ対馬海峡を突っ切ってウラジオストックへ逃げ込むつもりだったという疑いが持たれる。
各会議が開かれなかったのも、行えば「この」方針がうまく行かなくなるからだったとも考えられる。
日本海軍の不安は頂点に達しようとしていた。
東郷はこの鎮海湾から動く気はなく、それが彼を世界海軍史上の名将にした。だが頭脳担当の真之は動揺した。
20日過ぎになった頃、彼は鎮海湾に居続けていては大事を逸すると思い込み、津軽海峡で待ち伏せると思案を決し、それが参謀長意見とされた。
5月24日に連合艦隊司令部から「もし相当時期まで敵艦を見ないときは艦隊は随時に移動する」という電報を受けた東京大本営。
実際にはこの電報は、作戦班長山下源太郎に対する意見電報だったが、山下らは「通告」と受け取り、対応に苦慮した。
山下自身は対馬海峡から来ると信じているが、十に一つの想定に対し津軽海峡に機雷を敷設していた。
鎮海湾で待機すべしという内容を命令するか助言するか、悩んだうえ長文の電報案を起こして海軍大臣山本権兵衛のもとに走った。
海軍の作り手として特別な存在。
「これは、ならん」と電報を差し止めた山本。全ては東郷に任せてある。後方から容喙(ようかい)するような事があってはならない。
更にやりとりの末、電文をもっと柔らかくして幕僚間でのやりとりにせよと許可した山本。
そして、待機を得策とする内容の電報を打ったと入れ違いに、三笠より「26日正午まで敵影を見ざれば北海方面に移動する」旨の電文が届いた。
東郷艦隊の各艦は石炭を満載して、喫水線が下がっていた。
万一敵が太平洋に回った時のための保険。
対馬コースとなれば捨てればいい。
真之の心気はこの時期乱れ続け、不動の判断というものがなかった。この針路については大本営、艦隊の幕僚間でも様々な者が意見を出していた。そういう意見を真之も積極的に聞いた。
東郷の元参謀長だった島村が、三笠に出向いて意見具申しようとした時、東郷が考える針路を聞くと「それは対馬海峡よ」と言い切った。
それほど東郷の意思が固いのなら、なぜあの電報が出たか。
その電報を東郷は全く知らなかった。結局は前線の幕僚と、東京の幕僚との間の意見交換に過ぎなかった。
後年明らかにした東郷の見解。
第一:北の宗谷海峡は霧深く大艦隊の航海は危険。第二:バルチック艦隊は鑑底のカキ等で船足が遅く、追い付かれるだけ。第三:石炭を大量に使う太平洋回りでは燃料切れの恐れがある。
このようないきさつにより、連合艦隊は鎮海湾に居座った。
以上が5月25日までの経緯。
宮古島
この25日、ロジェストウェンスキー艦隊は6隻の運送船を分離し、上海へ向かわせた。これらは石炭、弾薬、食糧などを積んでいた。
決戦を間近に控えて汽船を従えるのは足手まとい。
この配慮は日本側にとって非常な幸運をもたらした。
26日、この汽船団が上海港に入ったという報で、彼らが対馬海峡へ来るのを確信出来た。
だが、まだ他に汽船が残っていた。工作艦を含む数隻の特務艦。
連れて行く理由は、無事ウラジオストックに逃げた時、役にたつから。
そしてロジェストウェンスキーは陣形を変え、残した汽船団を全ての巡洋艦で囲み護衛した。この措置により多くの砲が攻撃から減ぜられた。
のちにこの艦隊の状況について海軍戦術研究家のA・T・マハン(真之が教えを乞うた)が評論している。
ロジェストウェンスキーは二兎を追った。一つはウラジオストックに遁走し、20隻でも残して以後の戦局に対し影響力を与える。
他の一兎は東郷艦隊との戦闘。
この時期の真之はほとんど眠れなかった。思慮を尽くして、もはや神だのみしかなかったが、その神が「敵は太平洋に回ったよ」とささやく。
一方東郷には変化なく、食欲も衰えず良く眠った。戦闘経験という点で世の提督の中で最も充実していた東郷。その豊富な経験が、やるだけの準備をしたらじたばたしないという心境を作っていた。
ロジェストウェンスキーが針路を対馬へ向けたのは25日午前9時。
日本人として最初にバルチック艦隊を発見した奥浜牛の話。
彼は借りた船を使って雑貨を運ぶ仕事をしていたが、26日の朝バルチック艦隊に遭遇した。
彼が宮古島の島庁に報告したのが午前10時。警察官が調書を作ったが、捺印が必要だと言った。奥浜が印を作って押したのが翌日。
それを受けた島司(地方行政官)は考えた末、電信局がある石垣島まで行って伝える事に決めた。だがそこに行くまで170キロ。
島司のもとにたまたま来た垣花善に協力を頼むと、村の世話人だった事もあり、垣花は仲間四人を募って手漕ぎの小船で出発した。
彼らは15時間かけて石垣島に着き、午前4時に郵便局員を叩き起こして「敵艦見ゆ」の電信を那覇の県庁と大本営に送った。
結局この報は、東郷艦隊の哨戒艦による「敵艦見ゆ」よりやや遅れ、その後多数届いた報に埋もれた。
その話のちに掘り起こされて刊行物となり昭和5年、沖縄県知事がこの5人に金一封を送った。
彼らの決死の航海から25年経ち、皆孫持ちになっていた。
これが広く世に知られるようになったのは昭和9年、大阪毎日新聞が「日本海海戦史」として大きく報道したため。
5月26日、バルチック艦隊は5ノットの低速で進んだ。その後ロジェストウェンスキーが命じたのは艦隊運動の訓練。
明日は敵を見なくてはならないという時になって急に始めた。
ただ、個々の艦が有機的に参加すべく懸命に動いたことで、士気を上げるためには有益だったと、士官たちは彼を見直した。
正午に演習は終わり、艦隊は速度をゆるめて後続の船団を待つ。
気の抜けた時間の中で、士官たちはまたロジェストウェンスキーの頭を疑い始める。
同じ演習がもう一度行われた。それは足踏み運動。ロジェストウェンスキーは、予想戦場に到着するのを故意に遅らせていた。
深夜に予想戦場に入れば駆逐艦や水雷艇による魚雷攻撃に晒される。それらは白昼には巨艦には接近出来ない。
この日の夜の航進は原則として無燈火で行われたが、各艦の操縦を信用しないロジェストウェンスキーは、旗艦に向かっている燈火のみ点燈させた。本当に刺客がいれば極めて危険。
深夜12時過ぎ、ロジェストウェンスキーは予想された日本軍の水雷攻撃がなかった事で少し安堵した。もし自分なら攻撃する。
攻撃がないことで、東郷たちの戦術能力はさほどではないと、楽観したくなった。
だが真之のプランでは、駆逐艦や水雷艇といった魚雷攻撃は新鮮は敵には用いず、新鮮な敵にはあくまでも砲撃による主力決戦で打撃を与え、後段においてそれを使い討ち取る作戦だった。