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人間の絆 Ⅱ(全四巻) 作:サマセット・モーム

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感想
ロンドンの計理士事務所で働くものの続かず、パリでの画学生生活を始めるフィリップ。
フィリップの人生観に大きな影響を与える、クロンショーとの出会い。
この時期の先輩画学生ファニー・プライスが強烈。

全く画力がないのに、自信だけは満々で知識も豊富。

フィリップに気があったが、極端な貧困のため、最後は首を吊った。
その絵の道も、講師のフォアネに平凡な画家以上にはなれない、と宣告されて諦めるフィリップ。

だがフォアネ自身も、たった一枚が評価されたため、人生を見誤った。
50章でクラトンが話す画家は「月と六ペンス」のひな形。

実際のゴーギャンは、ここまでヒドい男ではなかった様だが、勤め人から画家に転身したのは事実。

絵の道を諦め医学の道を選んだのは、父の職業だったからという程度の動機。
医学生になって間もなく、あの因縁のミルドレッドを知る。

前回までは「毒婦」と言っていたが、今回の印象では、フィリップの側にも相当な問題がある。
全く気がない相手に横恋慕したのが、彼の不幸。まあ、金使わせといて「ワタシ結婚するの」もないもんだが・・・・

このⅡ巻は、様々な意味で自分の振り返りになった。
53章の、オヒャラかしに対するフィリップの自問。これがそっくり当て嵌まる。元々暗い性格ではなかったが、両親がいないという喪失感を、ひょうきんさで隠すようなところがあった。
今でも中学の同級生に言われる「笑っていたと思うと急に怒る」・・・自分の精神的欠損に対する不安。
人から受ける親切に対する耐性の弱さも、そう。

ミルドレッドの話にも共感出来る。中一の時、ちょっとした誤解から好意を持った同級生。背伸びをして交際らしい事をしたが、彼女の方から好かれるという感覚はなかった。だが決定的な拒絶がないまま、以来延
々と片思いは続き、その気持ちを結婚後も引きずった。
今でも、もし彼女が助けを求めて来たら、無条件で手を差し伸べるだろう。いきさつは、このブログのどこかに書いてある。



  38 ~ 63章
38
歳末は多忙だった。トムソンという計理士と出先で行う作業。

顔色の悪い四十男で、見習書記のフィリップを嫌った。
計理会計の能力がないフィリップに、恥をかかせる事を楽しみにするトムソン。
数々の嫌味に対抗するものの、事務能力が上達しないフィリップは、人目を盗んで事務用便箋にスケッチを描いたりした。
ある時、それが皆に披露されてミスタ・カータァから叱責される。
ロンドンでの生活に期待していたが、今ではそれを憎んだ。
ヘイウォードがロンドンに来ると聞いていたが、イタリアの気候に魅せられて春には来れないとの知らせにも失望。
また、事務所などは青春の浪費、なぜ絵の勉強をしないのだ?と重ねたヘイウォード。
それはフィリップも漠然と考えていた事。パリで暮すために必要な費用などをミス・ウィルキンソンに手紙で聞いたりした。

だが用心深いフィリップには、ためらいがあった。
そんな頃、ミスタ・グッドワージーがパリでの仕事を打診した。

いつも行く書記が病気のための代役。昼間は仕事だが、夜は自由。

フィリップは喜んだ。
こうした旅行の楽しみ方をグッドワージーは熟知しており、猥雑なパリを十分フィリップに味わわせた。
その出張は一週間足らずだったが、フィリップの心は固まった。
八月下旬に休暇を取る予定だったが、その一ケ月前から資格試験の講義に出る名目で国立絵画館に通い、絵画関係の本も読み漁った。
そして休みを取る前日、グッドワージーに、もう帰って来ないと宣言するフィリップ。
39
フィリップが説明した計画について、一切を否定した伯父。

初志貫徹の強調。
画家という職業に対する嫌悪。間に入って途方に暮れる伯母。
仕送りを止めると言う伯父に対し、断じてロンドンには戻らない決心のフィリップは、親の形見の宝石を売っても金を作る、と反発。
伯母は弁護士のニクソンに手紙を書いたが、その返信はフィリップの成績が悪い事、解約は妥当との見解。
伯母が、銀行に行って金をおろして来た。結婚の時に持って来た三百ポンドの残り。様々な出費でそれは百ポンドあまりに目減りしていた。
それは受け取れない、とフィリップ。自分の命がそう長くないと承知している伯母は、夫より私の方が先に死にたいとも言った。

結局それを受けるフィリップ。
40
伯母の見送りを受けてパリに向かったフィリップは、車内に落ち着いたとたん、彼女の事など忘れてしまった。
ヘイウォードに紹介してもらった学校には既に手紙を出し、紹介状も手にしていた。
宿泊用のホテルに落ち着く。心は戦慄に震えた。
翌日、学生総代のミセス・オッターを訪れて勉強のやり方を師事するフィリップ。その後画材を購入。
翌日、アミトラーノの学校に顔を出したフィリップは、ミセス・オッターの指示でミス・プライスの隣りに席を取った。

モデルは若くはなかったが、初めて見る裸体の女。
頭からスケッチを始めたが、想像と実際の乖離に行き詰まった。

ミス・プライスが、まず碁盤目を引いてから、とアドバイス。
そのうちに、長い顔をした青年ミスタ・クラトンが入って来た。

ミス・プライスとの会話や、フィリップの絵に対する批評。彼女はファニー・プライスと呼ばれていた。服は汚く、不潔な印象。
昼になり、ミスタ・クラトンがグラヴィエの店まで連れて行ってくれた。

そこで、ミス・プライスが君に気がありそうだと言われる。

店に居たミスタ・フラナガン、ミスタ・ローソンに紹介されるフィリップ。
皆、実に様々な話をした。相手の話など聞いていない。

夢のように時間が経った。
41
モンパルナス大通りを散歩していると、ミス・プライスがベンチに腰掛けているのに会った。毎日この時間には来るのだと言う。
軽い話をしているうちに、アトリエに戻らなくてはならないと言うミス・プライス。有料で参加できるスケッチのクラスがあるという。
彼女について行くフィリップ。入り口で半フラン払って入場。
モデルは老人だった。朝に習った手法を試みたが、うまく描けない。

気を回して彼女と離れて座ったが、後でヒントぐらい教える、とミス・プライス。
スケッチの時間も終わり、パリらしい経験をしようと、カフェの店先でアブサンを飲むフィリップ。

上機嫌になったフィリップは、昼に行った店グラヴィエに向かった。
そこにはクラトン、フラナガンもおり、席を開けてくれた。

盛んに交わされる美術談義。
ローソンが、フィリップにラファエル論を吹っかけて来た。

それに対して反論するフラナガン。
アメリカ人も議論に加わり、どんどん賑やかになる。
ウォルター・ペイターの名が出て、それをフィリップが肯定すると、ローソンが「クロンショーを知っているか?」と聞いた。

直接ペイターを知っていたという詩人。

酔っぱらった時だけ良さが出るが、酔うのに恐ろしく時間がかかる。
女の子が居る店に行く者と、クロンショーが居る店に行く者とが別れた。フィリップは後者。
42
クラトン、ローソンと一緒にクロズリ・デ・リラに行ったフィリップ。カフェに着くと、クロンショーは一番奥の席に座っていた。頑丈なつくりの大男。丸い顔に小さな髭。フランス人とドミノ遊びをしていた。
フィリップの姿を見ると、クリケットの話を始めるクロンショー。

これだけがパリになくて残念だと言った。机には大量の酒杯。

人の嫌がる話題で、わざとイラ付かせるのだ、とクラトン。
そんなやりとりがしばらく続いた後、朗々と論じ始めたクロンショー。

良く通る声で、知恵と戯言を巧みに混ぜた。

それは絵、文学、人生と多岐に亘った。
続く饒舌を後にして帰宅したフィリップは、ベッドに入ったが眠れなかった。きっと偉大な画家になってみせる。
酔ってはいた。だが僅かにビール一杯。酔っていたとすれば、それは酒よりもっと危険な、ある興奮剤によったとしか思えなかった。
43
アストミラーノでは、何人かの画家が講師として訪れた。
火曜はミシェル・ロラン。初老の男。芸術の進歩に対しては弱いが、教師としては優れている。
一方金曜に来るフォアネは萎びた様な小男。若い頃注目されたが、その一枚だけの人間。

他人の成功を妬み、学生達にも辛らつだが、教師としては一流。
そんなフォアネに酷評されるミス・プライス。お礼しているのに見てくれないという愚痴を、ミセス・オッターから告げ口されていた。

とばっちりを受けるフィリップ。
だがその後会った時には優しく応対され、画商の店へ絵を見に連れて行ってくれたミス・プライス。マネの「オランピア」。
明日はルーヴルへ連れて行ってくれるという。だがその一方でミセス・オッターや、学生のミス・チャリスへの悪口が際限もなく飛び出す。
別れた時に、ホッと溜息をつくフィリップ。
44
ルーヴルで、様々な絵画について教えてくれたミス・プライス。
その後、食事に誘うフィリップだが、ミス・プライスはガツガツ、ガサガサと野獣の様な食べ方。全く不思議な女。今日の機嫌の良さが明日も続く保証はない。またフィリップが彼女以外から助言を聞く事を嫌った。
ローソンたちの忠告。君が、好きらしいよ。
知り合った者たちの印象を整理するフィリップ。
クラトンは、基本的に有能。小さなアトリエを持っており、素晴らしい作品が多数あるとの噂。ブリタニーで会ったという画家に影響を受けて、ものの見方の模索をしている。
ローソンとはすぐ親しくなった。興味の範囲が広く、読書家。フィリップにも気前良く本を貸してくれる。
女性に関しては夥しい自慢話を持っていた。大学に行くかわりに絵の勉強をしているが、いずれ父の仕事を継がなくてはならず、それまでの間を楽しむスタンス。
ミス・ウィルキンソンに会ってから一年以上経っていた。何度か手紙が来たが、返信はしていない。

後味は悪かったが、そのうちにすっかり忘れてしまった。
また、彼の古い神々の事も、完全に捨ててしまった。

印象派に対する驚きの後は、称賛。

着るものも変わり、平然とアブサンを飲むことも覚えた。
45
仲間たちの精神を動かしているのが、クロンショーだという事を知るフィリップ。
クロンショーは、ある女と同棲していたが、それを見たのはローソンだけ。騙されているとの、もっぱらの噂。
絵の展覧会の批評記事などで食いつないでいるが、かつては英語新聞の編集をやっていた(酒でクビ)。
みすぼらしい服装だが、一目でそれと判るイギリス人。
新顔が好きなクロンショーは、フィリップをすぐ気に入った。

彼の演説に魅せられたフィリップだが、その言葉が雑誌の引用だったりした事で失望。
それが発端で、クロンショーと議論を始めるフィリップ。
酒が弱いフィリップに、酒なしじゃ話がだめになる、とクロンショー。
この人生で追求するものは一つ、快楽だという。

違います!と叫ぶフィリップは、人は欲する事をしないで、欲しない事をする場合もある、と反論。
人が祖国のために死ぬのは、そうするのが好きだから、とクロンショー。
人はなぜ、この世に生まれて来るのですか、との質問に、その答えには、と言って織物の行商人を指す。
混み合う店の中で、品物を見せて回る二人の男。
クロンショーに呼ばれて織物を見せる男。値段交渉が始まるが、どんどん値段が下がって行くうちに、その二人を追い払ってしまった。
ペルシャ絨毯の素晴らしさに言及するクロンショー。人生の意義は、それを見れば自然に答えがわかって来る時がある、と言った。
46
パリでの生活は廉くはなかった。

ほとんど金は使い果たしたが、伯母に泣きつくわけにも行かず、装飾品を売って遺産が貰える年齢になるのを待った。
その頃、ローソンの提案でアトリエを一緒に借りる事になった。

計算的にはホテル住まいと大差ない。
学校でのファニー・プライスは相変わらずの毒舌だが、少し雰囲気が違った。
ある日向こうから声をかけて来て、自分の絵をどう思うかと聞いてきた。学校で見るだけだから判断出来ないと言うと、自宅まで他の作品を見に来て欲しいという。
ひどく黴臭い部屋。小品を二十枚ばかり見せられる。批評のしようがない奇々怪々な絵。適当に褒めて早々に退散するフィリップ。
47
三月になると、皆サロンへの出品で興奮していた。

ローソンが入選し、ミセス・オッターも良い場所に絵が架けられた。
長らく会っていなかったヘイウォードが、パリに来て数日間滞在した。十八歳のフィリップを感動させた彼も、二十一歳となった今では軽い軽蔑も感じた。
ルーヴル他を案内して回るフィリップ。
一、二日してローソン、フィリップ共催のパーティが行われた。

主だった友人の他に、クロンショーも来てくれた。
夏が来て、皆バカンスの計画を立てる。フィリップとローソンは、ミス・チャリスの紹介でフォンテンブローの森に行く事にした。彼女も同行。
出発前、その事を知ったミス・プライスは、フィリップが残るものと思っていたため落胆。その裏返しで、口を極めてフィリップに悪態をついた。
フォンテンブローの森のはずれの町、モレ。そこで絵を描く毎日。だが連日の暑さで仕事が手につかず。
ホテルに滞在しているフランス人の中年女と話し友達になるフィリップ。娼家の女将であり、ほどなくローソンとミス・チャリスの仲に勘付いた。女をこさえないの?と問われて肩をすくめるフィリップ。
ミス・チャリスとの恋人関係を夢想するが、さて話してみると欠点ばかりが目につく。奇形的なものの見方。
長い夏も終わり、皆でパリに戻った。
48
フィリップが戻った時、ミス・プライスはいなかった。

ミセス・オッターの話では、イギリスに帰ったのだろう、との事。
サロンに出せるようなものを描きたいフィリップ。

ローソンはミス・チャリスの肖像を描いていたが苦戦。
その頃、ミス・チャリスの誘いで、彼女の肖像を描かせてもらうフィリップ。ローソンの適切な助言。
ローソンは何とか描き上げ、スペインから戻って来たクラトンに批評を求めた。クラトンは、向こうでは一枚も描かなかったという。
クラトンは、ローソンの絵を褒めた。だがその後に「実に下らない絵」
クラトンの持つ独特の価値観。
ある日、モデルとして来た青年に注意を惹かれるフィリップ。スックと立って昂然としている。
一週間が終わり、もう少し個人的にモデルをして欲しいと申し出るフィリップ。モデルで金を得る事を恥じている彼は、借りるという名目でモデルを引き受けた。彼の名はミグエル・アフーリア。
ミグエルは作家を目指しており、パリだけが書くに値する土地だと信じている。彼の原稿を一度読んだが、ひどい代物。
ミグエルが好きだったが、才能を除いては、いい作家になるあらゆる資質を備えている、そんな人間。
ある日、管理人から手紙を受け取るフィリップ。

ミス・プライスから。すぐ来てくださいとの内容。
家に着き、管理人に万一の危惧を話すと警官を連れて来た。その上で錠前屋により解錠して入ると、彼女は首を吊って死んでいた。
49
ミス・プライスは恐ろしい窮迫に追い詰められていたらしい。

パンと牛乳だけで一日を凌ぐ。それが毎日。
連絡先がないかと探し回り、ようやく兄というアルバート・プライスからの手紙を見つけ電報を打った。
翌日来たのは、まことに冴えない男。

先の手紙は、彼女からの金の無心を断ったものだった。
死体埋葬のための手続きに三日間を要し、フィリップもかかりきりだった。簡単な葬式にはアトリエの仲間たちも参加。

モンパルナスの墓地に埋葬された。
兄の提案で店に入り昼食。パリでの画家たちの生活に興味津々の兄。パリの夜を楽しみたいと一泊を申し出るが、フィリップがにべもなく断ったため、ロンドンに帰って行った。
その日の午後は落ち着かず、結局フラナガンを訪ねた。アメリカ人特有のオープンな対応でフィリップを元気付けた。
フラナガンの提案でダンス・ホールに行く。フラナガンは早々に友人を見つけて行ってしまった。
踊る群集を眺めながら思いに耽るフィリップ。

クロンショーの言っていた、人の行動の目的は快楽・・・
たまらない憎悪を感じて外に出るフィリップ。
50
例の不幸な事件を忘れられないフィリップ。

ファニーの努力の空しさ。またミグエルもその一人。
フィリップの美に対する感じ方は、あくまでも知的鑑賞。ローソンに存在する個性。それに対してフィリップの描いたチャリス像はローソンの模写にすぎない。皮相的な手の器用さだけ。
手持ちの金は千六百ポンドきり。極端な節約が必要。

将来に対するおそろしい不安。
フィリップは、ミグエルの肖像を仕上げてサロンに出した。
フラナガンとローソンの作品が入選した。フィリップを慰めるローソン。

だがフィリップの悩みはもっと深かった。
レストランでクラトンに会い、自分の絵を見てくれないかと頼むが断られる。
画家というものに対する思いを語るクラトン。そして以前影響を受けた男の話を続けた。
イギリスで株式仲買人をしていたが、妻子を捨ててブリターニュに住み付き、絵を描き出した。
クロンショーに一週間会っていない事を思い出し、店に出掛けた。
彼の前には多くの台皿。彼の意見を聞く準備は出来ている。
二流の画家なんぞになったところで、しようがない。生活そのものの方が好きだと言ったフィリップ。
こんな生活、抜け出られるなら、早く出たまえ、と言うクロンショー。
51
二ケ月経った。真の画家、作家、音楽家などには、その仕事に没入させる様な力が働き、人生を犠牲にするのもやむを得ないとの思い。

だが肝心の人生は指の間からこぼれ落ちる。
人生は、まず生きるべきだという気がした。
そして行動に移したフィリップ。

レストランでフォアネを待ち伏せして声をかけた。
今後も絵を続けて行くだけのものが自分にあるのか、尋ねた。
思いがけず、君の絵を見に行こう、との言葉。
アトリエで数枚の絵を見たフォアネは、適当な収入がなければ、人生の可能性の、まず半分から閉め出しを食うと言った。
貧がいかに人間を卑屈にするか。
君は、手の器用さはある程度、ある。だが平凡以上の画家にはなれまい。勇気を出して何か他のことをやってみるべき、と言った。
若い自分に、もしそんな忠告をしてくれた人がいたら、私はどんなに有り難かったかしれない、と言ったフォアネ。
届いていた伯父からの手紙を、不安な気持ちで開けるフィリップ。

伯母が病気で寝ているのは知っていた。
手紙には、彼女が死去した事が綴られていた。
52
ブラックステイブルに着き、裏口がら牧師館に入った。

さぞ落胆しているだろうと思っていた伯父は、意外にも平静だった。
二階に行き、亡き伯母との面会。何という無駄な一生だっただろう!
花環の数を気にする伯父。また、メアリ・アンに暇を出す事を考えていた。彼女も、もう四十を越している。
四、五日して、伯父は彼にしばらくの滞在を切り出して来た。

フォアネの言葉で、絵を続ける意欲が萎えていたが、自分からは言いたくなかった。
環境の変化、イギリス海峡を渡ったことで、パリでの生活が急に色褪せて感じられた。
伯父はフィリップの絵を見たがり、自分の肖像を描いてくれとまで言い出した。
催促が続いたので、絵はもう止したんですと言うフィリップ。
石の上にも三年、という以前言った小言がまた繰り返される。
何になる、という用意は全くなかったが伯父の言う、父親の職業を継いで医者になれば、の言葉に乗ったフィリップ。
まるで偶然のように、秋にはかつて父親が行った病院へ入ることに決めてしまった。
パリの二年間は無駄だったのか?という伯父の言葉に、独特の表現で反論するフィリップ。
それをオヒャラかしだと言って嫌う伯父。
53
フィリップは、オヒャラかしという言葉に甘んじる。

両親に死なれたという損失が、他の人と違っている一つの点。

それ故に他の人々と同じ物の見方が出来ない。
自分の自己抑制力を自慢にしていたが、それは嘲笑によって叩き込まれたもの。無感情だという他人の評価。
だがその裏返しで、ちょっとした親切を受けても声が震える。

だから押し黙る。
あのオヒャラかしが出来なければ、自殺でもしていただろう。
パリで何を学んだ?という伯父の言葉。もっともっと学んでいる。

クロンショーとの会話も、記憶にこびり付いている。
パリで得た最上の収穫は、精神の完全な自由さ。

絶対自由人を感じる。これからの数カ月を読書に充てた。
「種の起源」を読んだ。この書物が示唆する倫理的法則は、自分にぴったり合うと思われた。
だが、人生の意味については依然として不可解。クロンショーの言ったペルシャ絨毯の例えを思い出した。
自分で発見しなければ答えにならないという謎かけ。
九月末、熱意に燃えながら蝦足と千六百ポンドを抱き、再びロンドンに向かうフィリップ。
54
聖ロカ医学校に入ったフィリップ。父親がここの学生だったから。

病院まで二分という下宿を選んだ。
最初は解剖学の講義。講義の場所が判らない少年ダンスフォードが声をかけて来た。一緒に探し何とか辿り着いた。
講師のミスタ・カメロンは白髪。外科の勉強は美術の鑑賞にも役立つと言った。以前東京大学の講師もしていたという。
実習室での解剖。フィリップの割り当ては男性の脚。女性は脂肪が多くて切り難いらしい。相棒となったニューソンと一緒に作業を進める。
55
下宿の小さな部屋で落ち着くフィリップ。

上階にはグリフィスという五年級の学生がおり、時々仲間と談笑していたが、ほとんど会った事はない。
フィリップは学校と下宿の生活に慣れて行った。

ただ学校はさっぱり退屈。解剖学は、書物の通りの実習をするだけで、無駄の様に思われた。
偶然に友達は出来ても、親友にまではならない。そんな中で、初めて知り合ったダンスフォードとは親しくなった。
人が良くて怒ることがない。良く議会通りの店へお茶を飲みに行った。そこの給仕の一人に気があるダンスフォード。
細い腰に薄い胸。背の高い痩せた女。誰も見向きしない、とフィリップ。
顔が素晴らしい、とダンスフォードに、一応評価するフィリップ。
彼のために、その給仕に話しかけるフィリップだが、反応は弱い。

ただ、馴染みの客には愛想が良かった。
ある日、彼女の名がミルドレッドだと教えに来たダンスフォード。

いやな名だ、とフィリップ。
いつもの馴染み客がいない事をネタに、彼女に話しかけたフィリップだが、見事に逆襲されて腹を立てる。
腹立ち紛れに、友が通う店も無理やり変えさせたフィリップ。ダンスフォードはそこで別の女を見つけて付き合い出した。
ただ、恥をかかされ、男の面目が立たないフィリップは、いつまでもミルドレッドの事が忘れられなかった。
改めて店に行くと、初見の客として扱われた。

天気の話で接ぎ穂を作ろうにも、乗って来ない。
辛らつな言葉が口許まで浮かぶ。
56
彼女のことがどうしても忘れられないフィリップ。我ながら愚かしい。
今度は感じ悪い事は一切せず行き、声をかけずにいたら何も言わない。
翌日も、さんざん迷ったあげく七時近くになって行った。
「いらっしゃらないかしら、と思ってましたわ」の言葉に胸が躍る。
それを機に会話が復活。医学生だと認識されている。

そういえば、横顔が美しい。
その日、紙片に彼女の姿をスケッチして置いて行った。
翌日、彼女が感心して話しかけた。好印象を持たれて喜ぶフィリップ。
それからは毎日、四時半になると店に現れた。
その日は、しばらく来なかった常連のドイツ人が居て、フィリップが呼んでも応えない。
腹を立て、ステッキでテーブルを打った。機嫌が悪い彼女。

ちぐはぐした空気の中で注文のやりとり。
それ以後、自分の怒りを知らせるために、他の給仕に注文する毎日。例のドイツ人は再び来なくなった。
いつまで続けても意味がない事に気付き、一週間後に元の席に座って彼女に注文。
そこで食事と観劇の誘いを申し出た。木曜ならいい、とミルドレッド。
嬉しそうな様子が微塵もない事に、ムッとするフィリップ。
57
待ち合わせの場所で行き違いがあったが、何とかレストランに向かった二人。
満足そうなミルドレッドは、シャンパンを取った事に驚く。
会話はあまり弾まなかったが、店の他の女たちの話になると、生き生きと話し出した。主に悪口。
食事の後は芝居を観に行った。軽喜劇を蔑視するフィリップだが、ミルドレッドはすっかり喜んで笑い転げた。
帰り道で、いつかまた一緒に来てくれる?との言葉にも「ええ、いいわ」との言葉だけ。
汽車に乗り、彼女の下宿そばまで送ってから別れたフィリップ。
ベッドに入っても、彼女の顔が浮かぶ。

思い描いていた恋愛とはかなり違う。
ミルドレッド・ロジャースに恋するなんて、とても本当とは思えない。

動作、笑い声。何を取っても下品。
だが激しい感情の嵐に襲われる。接吻がしたかった。無性に苦しい。
この魂の痛みにどうやって耐えて行こうか、と考えていた。
58
翌朝早く目覚め、ミルドレッドをヴィクトリア駅まで迎えに行こうと思い立ったフィリップは、それを実行した。
フィリップを見て迷惑がっている事は明らか。早く行かなくちゃ、と速足で歩き、置いて行かれるフィリップ。
店に行き、その晩駅まで一緒に歩こうと誘うフィリップは、結局汽車に乗って彼女の下宿まで見送った。

その道すがら、彼女は自分の事を話した。
また芝居を観に行く約束を取り付けるが、おやすみのキスは拒否された。
土曜の晩の切符を買ったフィリップ。
そして当日、店に行くと例のドイツ人ミラーが来ていて、彼女と話していた。ミルドレッドが注文の紅茶を持って来ながら、今夜は行けないと言った。叔母が病気だという。
目の前で切符を破り、そのまま店を出るフィリップ。

見え透いた嘘だとの怒り。
彼女が店を出るまで見張った。だがその姿を見られた。

スパイの様な真似に怒るミルドレッド。
ミラーの話をすると、それがまた彼女の逆鱗に触れた。

怒りから絶望に変わるフィリップは、今夜一緒に来てくれなかったら、二度と会わないと言い放った。だが彼女を引き止める事が出来ない。
「じゃ、さよなら」 歯牙にもかけられていない事を初めて知った。
59
惨めな気持ちに苛まれるフィリップ。

思い付く限りの彼女の欠点を洗い出したが、結局どうにもならない。
学校時代、大きな子に捕まった時の気持ち。しまいに力尽きて、麻痺した様にぐったりと力が抜ける感覚。
彼の意思、利害に逆行して不思議な力に捉えられている。

この鎖を憎んだ。
ダンスフォードと共に、あの店に行かなければこんな事は起きなかった。
エミリ・ウィルキンソンやファニー・プライスの事を思って、悔いの痛みに襲われた。
生物学の勉強に取り掛かるフィリップ。

時間の上では三ヶ月分を二週間で覚えなくてはならない。
いよいよ試験当日。自分では自信があったが、講義に出ておらず、本以外の質問には参った。
翌日、及第者の中にフィリップの名がなかった。ダンスフォードさえ及第だったのに、自分は落第。
慰めの言葉が欲しい。ミルドレッドに逢いたいという誘惑。
店の前で少しためらったが、そそくさと店に入る。

彼女が来て、紅茶とホットケーキを頼む。
死んじゃったのかと思った、と笑うミルドレッド。
言い訳を重ねるフィリップに、あんた、まだ謝ってないのよ、と言う。
謝罪の言葉は絶大な効果があった。

彼女の話では、ミラーは全く紳士じゃなかったから、すぐ手を切った。
今夜食事をしよう、と強引に誘うフィリップ。

服装を気にするが、強い押しに承諾するミルドレッド。
60
二人はソーホーで食事をした。ルアン生まれだという親爺さんが営む、小さな店を見つけていた。
最初不機嫌だったミルドレッドも、次第に気に入った様だった。
有頂天のフィリップ。

彼女らに対する唯一の手は適度にあしらう事だが、フィリップは自分の苦しみ、心の闘いなど洗いざらい話してしまった。
そんな事には構わず、芝居へ行く時間を気にするミルドレッド。
芝居が終わり、馬車で送り届ける時、一度キスをした。特に拒絶はない。もう一度、の懇願にも「まあ、いいわ」
61
それからは、毎日彼女に会った。週に一度は食事。

その度に腕輪、手袋などの貢物。
時には散歩もするが、すぐ退屈する彼女のために、話題作りに汲々とするフィリップ。彼女の方に気がないのは判っていた。
彼女が他の男と話していると、嫉妬の焔が燃え上がる。

わざと人前で彼女を苛める事もあった。その翌日は許しを乞う。
最悪の喧嘩が、ある晩の食事中に起きた。

ある男から芝居に誘われたと言うミルドレッド。
僕が連れて行くと言い張るフィリップに、行くつもりだ、とミルドレッド。
感謝の念があるなら行けない筈だ、との言葉に怒る彼女。

贈り物などみんな返してもいいと言った。
食事代と芝居代さえ払えば、それでいいぐらいの立場はうんざりだ、と言ったフィリップを見限って出て行ったミルドレッド。
十分もして後悔し、彼女を追いかけるフィリップ。

再び謝るが、相手にされない。
こう言えば、きっと効果があると本能的に知っていた。
僕はこれで、いろんな辛いことがある。跛(びっこ)ってものがどんな事が、君には判るまい・・・
そんなつもりで言ったんじゃないのよ、と同情にかすれた声で話すミルドレッド。芝居を打って同情を買うフィリップ。
仲直りを果たしたフィリップは、翌日彼女に時計をプレゼント。
三、四日してミルドレッドは、先日の約束は守れるの?と聞いて来た。あの人と、今夜また一緒に行くという。
もう、嫌な事を言って取り乱したりしないから、とフィリップ。
その後、その彼と行く劇場やカフェの名を自慢そうに話すミルドレッド。
尾行して相手の男を確認するフィリップ。

髪を撫で付けた、のっぺりした青年。安ピカものの欣々居士。あれぐらいが分相応だと思ったが、そういう輩が話す様な話題を仕入れるため「スポーツ・タイムズ」を読むフィリップ。
62
身を焼き尽くす感情に苦しむフィリップ。

以前感動した国立美術館に行っても、何も感じない。
元来の自己分析で、これはもう、ミルドレッドを情婦にするしかないと思うフィリップ。つまり性の渇望。
女の方ですっかり彼のものになってくれる方法。それはパリ旅行。
復活節にはミルドレッドも三日間の休みが取れる。その提案に、とてもお金がかかる、と返すミルドレッド。三十五ポンドは要るだろう。

だが彼女のためなら何でもない。
愛していると言う割りに、一度も結婚したいと言わないと言ったミルドレッド。もし言われてもそんな気はない、とも。
結婚の事は考えてみたが、中流階級的本能のために、女給と結婚するなどとは思いもよらない。
ただ、一度思い込むと突っ走る性格。

苦しさに耐え切れず、求婚したフィリップ。
幸福になれる?と言う彼女。具体的な話が始まる。
今ある金が千四百ポンド。これで何とか卒業して病院での義務を果したら助医の口がある。という事は六年間は収入なし。そして助医になったとしても週三ポンド。それらを洗いざらい話したフィリップ。
今のあたしより、ちっとも良くならない、と冷やかなミルドレッド。
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フィリップは三月の解剖学の試験に、また落第した。事前の勉強はみっちりやったが、試験官の前で上がってしまった。
二度の失敗で劣等、怠惰学生のレッテルを貼られるフィリップ。
だがそれを大して気にかけない。

ミルドレッドの事も、いつかは陥落すると思っていた。
そのために、彼女の憩いとなる様努力した。その効果は見えて来て、前よりもずっと打ち解けて話すようになった彼女。
あたしに恋、恋って言わない時は、とても好きだわ、とミルドレッド。
四月の末、彼女の方から食事の誘いがあった。少しはこちらを思う気持ちになったか、と喜ぶフィリップ。
あたし、結婚しようと思うの、と切り出すミルドレッド。

そろそろ薹が立つ二十四歳。
相手はあのミラーだと言う。呆気に取られるフィリップ。
この土曜に届けを出すと言った。恐ろしい疲労感。
最後に駅までの馬車を雇って、彼女を送り出すフィリップ。

さすがに同行は無理。
家に帰って枕に頭を付けるやいなや、深い眠りに落ちていた。

 

 


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