番組紹介
前フリ
人類初の月面着陸から50年。
世界中が注目するミッションに命をささげたアームストロングだが、自分が最初に月に降り立つよりも重大なことがあったと言う。
その真意とは?
着陸からわずか2年でNASAを退職、マスコミを避けたのはなぜなのか?
危険な任務に家族は何を思ったか?
ヒーローの栄光の陰の知られざる苦悩と悲劇をプロファイル!
感想
映画「ファースト・マン」公開直前の放送で、NHKさんもイキな事をやるなーと視聴。
ただ、このレビューは映画よりも遅らせた方がベターという判断で・・・・
気になったのは、映画で一番強調されていたカレンの記述が全くなかった事。それでウィキペディアの方で調べてみたのが以下。
『子供は3人授かったが、第二子のカレンは脳幹に悪性腫瘍があると診断された。X線療法で病状の進行は抑えられたが、次第に体力が衰え、立つことも話すこともできなくなり、1962年1月28日に肺炎のため死亡した』
なお2016年4月26日に放送された「コズミック フロント☆NEXT 沈黙の宇宙飛行士 ニール・アームストロング」では娘の死のショックで宇宙飛行士の応募書類を出さず、NASA側が特別に締め切りを遅らせて応募させたとある。視聴可能。
デミアン・チャゼル監督は、この題材を膨らませてヒューマンドラマの骨格を作っており、それはそれで評価する。
幼い頃から飛行機好きな一方、人づきあいが苦手な「技術屋」タイプのニールが、ジャネットと結婚出来た事自体が驚異的だったのかも。
今回番組、ウィキペディア両方を見ても、妻ジャネットの苦悩が浮かび上がって来て、いかに宇宙飛行士の妻が精神を消耗するものかという事を思い知った。その点で映画は秀逸。
それと今回思ったのはオルドリンの「ゲスさ」。ファースト・マンになるために水面下で工作していたり、各方面での発言にも自己顕示欲が満ち溢れている。ただ、映画ではそれを糾弾するのが目的ではないため、匂わせる程度で上品に収めていた。
宇宙船における座席配置によって、たまたまニールのファースト・マンが決まった様に書いている記事もあるが、それも含めての船長及びファースト・マン任命。
ただ、映画でニールが月に置いて来たものをカレンのブレスレットにしたという創作は、今回における四つのメダルのエピソードの方に軍配が上がる。
月着陸という圧倒的に重大なミッションに対し、月に残すとしたら何がベストなのかをニール本人が突き詰めて考えた答え。
だけどこの話、ウィキペディアには書いてないんよね。NHKの取材力を信じているが、さて?
番組概要
1930年、オハイオ州生まれ。
二歳から模型飛行機に夢中になる。十六歳でパイロット免許取得(自動車より先)。
自由な空へのあこがれは、人間関係からの逃避でもあった。
パデュー大学では航空機の設計と操縦を学んだ。
大学を卒業して、新型航空機のテストパイロットになったニール。
運命の女性ジャネット・シェアロンを知ったのは大学在学中。周囲には「僕はあのコと結婚するよ」と言っていたが、初デートは卒業してから。
26歳で結婚。子供はリック、マークの息子二人。
テストパイロットとして高い評価を受けていたニール。
1962年(31歳)。運命を変える宇宙飛行士の募集。
背景に東西冷戦。1961年にガガーリンが初の有人宇宙飛行に成功。
ケネディが月面への着陸を国家目標に掲げる。
だが米国の技術はお粗末。たびたび爆発を起こした。
宇宙飛行士には253人の応募。ニールは最終の9名に残った(32歳)。人づきあいが苦手だが、前に出ないその性格が人を惹き付けた(信頼出来る、答えを出す人)。
進められる訓練。世間の興味は「ファースト・マンは誰になるのか」
月着陸としてのアポロ計画は、サターン5号により地球引力からの離脱。司令船と着陸船が月軌道に向かい、四日後着陸船が月に着陸。往復80万キロ。
この計画のカナメであるドッキングを担保するためのジェミニ計画。
ジェミニ8号の船長となったニール。クルーは二人。
ドッキングは成功したが回転が止まらない。
意識が薄れる中で何とか機首を地球に向けたニールらは帰還。
その手腕が褒め讃えられた。
だが本人は計画を潰してしまったと悔やむ。
事故はニールの家族に陰を落とした。妻とのいさかい。クルー全員が死んでいた可能性。月に近づくほど妻の心は遠ざかる。
国家目標の犠牲。
1967年。アポロ計画本格スタート。アポロ1号に搭乗する予定だったガス・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーの三名が地上訓練中の火災で死亡。
国連の会議後のパーティーでそれを知るニール。
計画の大幅な見直し。
1969年。月着陸を前提としたアポロ11号の計画が進む。乗員はニール、バズ・オルドリン、マイケル・コリンズに決定。
ニール、オルドリンどちらかがファーストマン。オルドリンは自分が推薦される様運動を行ったが、ニールにとってそれは大した問題ではなかった。大した問題は、ある事故。
月着陸練習機の訓練中、突然機体が傾き始めて降下した。とっさに射出座席で脱出。0.5秒遅れたら死の危険があった。
事故そのものは重大だが、これでニールの性格も判った。
月着陸で大事なのは帰還後。オルドリンは名誉を欲しがる。
だからニールが船長に選ばれた。
出発前の記者会見で、もし持って行けるなら記念に何を持って行くか?の質問に「持って行けるなら少しでも多くの燃料を」と答えたニール。
なぜ選ばれたか。親友の死、精神力の強さも要因。
1969年7月16日。ニール38歳。アポロ11号の発射。無事地球を離脱して月軌道上。
着陸船の切り離し。10キロ上空で警報が鳴る。表示は「1202」。
当時のコンピューターは旧式であり、情報処理が追いつかないために出た警報。今まで出た事がなかった警報であり、センターでも対応が遅れ、ニールは最悪の事態を想定した。
幸いミッションに支障ない事が判明したが、その時には予定した着陸地点を過ぎていた。
ニールは着陸させる事に集中。岩場を避け、適切な場所を見つけて降下。そして着地。
有名な言葉
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」
なぜあの名言が生まれたか
月着陸後、最初のミッションは星条旗を立てる事だった。
そしてニクソン大統領からのホットライン。合衆国の誇りだと言ったニクソンへの返事は「我々は合衆国の代表ではなく人類全体の代表と考えています」
月には2.5時間滞在。その間に行うべき事でニールとオルドリンは多忙だった。
月面を離れる直前、小さな包みを残したニール。それはメダル。
アポロ1号クルーとして命を落とした三人の仲間と、ソ連のガガーリン。意思のある言葉「人類代表」。
帰国後熱烈な歓迎を受けたニール。日本も訪れていた。
だがその後表舞台から姿を消す。
1970年(39歳)。NASAのワシントン本部に移動し管理職となった。
航空学の副長官。だが常に電話を受ける状態であり、実際の仕事は出来なかった。ほどなくしてNASAを退職。
1971年にシンシナティ大学の特別教授に就任したが、その後も注目され続けた。
家族と一緒に夕食を摂っている時にもサインを要望される。
「いつになれば私が宇宙飛行士でなくなれるのか」
ある新聞に「世捨て人」と書かれた。
ジャネットはホッとした。今度こそ二人で一緒に何か出来る。
だがニールは家族のために時間を使う事は出来なかった(ワーカーホリック)。夫に失望したジャネットは別居。そして離婚。
ニールの落胆は、それまで見た事がなかったほど。
「彼女はもう戻って来ない」
ニールが再び姿を現したのは1986年のスペースシャトル「チャレンジャー」号の事故。離陸後に爆発し、クルー7人全員死亡。
この時の事故調査委員会の副委員長になって究明に尽力した(当時55歳)。
直接原因となった部品のメーカを追求し、問題に気付いていたというメーカの言葉を引き出した。原因を突き止める事にこだわった。
次に注目された場面は1994年(63歳)。月着陸25周年の記念式典。
私たちは始まりをやり遂げただけ。チャレンジは宇宙とは限らない。
2012年。82歳で永眠。
自身を「いつまでも野暮ったいエンジニア」と称していたニール。
なぜ姿を消した?
命をかけたミッションで「その後」がなくなってしまった。
それと頑固さ。エンジニアとしての夢を貫いた。
ジャネットとの離婚は、仕事と家庭の両立が出来なかったから。