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Channel: 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)
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新聞小説「春に散る」(11)沢木 耕太郎

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作:沢木 耕太郎 挿絵:中田春彌 3/19(344)~4/30(385)


庭のリング 1~42
翔吾に走る事を指示してから、そろそろ1ケ月が経とうとしていた頃、翔吾がチャンプの家に顔を出した。
あの斜面を走れるようになったと言う。広岡たちでも2~3ケ月かかったトレーニング。それを見せてもらうために四人は翔吾を連れて多摩川の土手に向かった。
翔吾は斜面を走り出し、斜めの駆け下り、駆け上がりを繰り返した。安定したペースでリズムにも変化がない。その先へはもう行けないところまで走り切ってしまった翔吾に藤原が「戻って来い」と声をかけた。
「おまえは、凄いな」と佐瀬が感嘆した。「いい走りだった」と言う広岡に「教えてもらえますか」と聞く翔吾。


家に戻ると星が翔吾に、シャドー・ボクシングを見せてくれと言った。それを受けて佐瀬が庭に出て、翔吾にスコップを渡し、目印の石を繋ぐように線を引かせると、それがボクシングのリングの広さになった。広岡は佐瀬が畑作りを止めて、翔吾を教えるつもりだった事に驚いた。
シャドーを始める翔吾。1ラウンド4分の指示は真拳ジムでのやり方だった。シャープな動き。
感想を待つ翔吾に構わず広岡は夕食の支度に向かってしまった。呆然と立っている翔吾に佐瀬が「シャワーを浴びて来い」


その夜はいつもの日曜日と同様、佳菜子も来て、カレーを食べた。食欲旺盛な翔吾に体重を心配する佐瀬。だが翔吾は、やるなら広岡と同じウェルター級、と言った。
食後のデザートも終わり、黙り込む四人。しばらくしてから星が、教えられるかどうか、みんなで相談する、と翔吾に言った。そして、次の土曜にまた来るように、と。


車で翔吾を送る佳菜子を見送って、四人は相談を始めた。教えることなんて出来るのか、と言う広岡に、星が「お前はもう教えているよ」と言った。以前翔吾に教えたクロスカウンターの一件。広岡があいつを目覚めさせたのだ、と藤原。佐瀬が「・・・・教えてみたい」。前にジムを経営していた頃の者とは桁違いの素質だった。
それに星も同意。いつものクールさに似合わない。星は高校時代からサーフィンをしており、たまたま地元のサーファーとケンカになった時、真田会長の息子、茂樹が加勢してくれたという。茂樹は父親に反発しながらも別のジムで練習をしており、それを星にも教えてくれた。習ううちに自分の適性に気付く星。そんな時に電車で揉め事になり、相手を一発で倒してしまった。その相手が広岡だった。
引退してから再びサーフィンを始めた星だったが、ある時出会った少年に教えてやった事の記憶があり、もし本格的に教えてやれていたら、という後悔があった。

なおも自分たちに教えられるだろうか、と問う広岡に、藤原が、翔吾のシャドーを見て何が欠けているかを聞いた。佐瀬がポイントを取るボクシングが身についてしまった、と言い、藤原はリスクを冒す勇気。星は体幹の強さだと言った。
「仁はどう思った」と聞く星。何かは判らないが、何かが不足しているという直感。だが、1ラウンドのシャドーを見ただけで欠けているものを見抜く、このメンバーなら・・・高揚しかかる気持ちを抑えてなお問いかける広岡に「教えてくれという若者がいて、教えたいという年寄りがいる。それだけでいいじゃないか」と言う星。四人の意見が一致した。


佐瀬が軽トラで、山形のジムで使っていた用具を持ち帰って来た。めいめいで準備を進める。
次の土曜日に翔吾が来た時、教える事を伝える藤原。トレーニングの場所は「庭」

ストレッチに続いてシャドーボクシング。次にサンドバックを打つよう指示する佐瀬。だが途中で止めさせた。ただ打っているだけでは筋肉作り。佐瀬はサンドバックに白い墨汁で①から⑥までの数字を書き込んだ。それぞれに相手の急所の場所を示している。
広岡に記憶があり、佐瀬に聞くとマイク・タイソンを育てたトレーナーがやっていたナンバリング法を変形させたもの。この練習法に相応しい奴が現れるのを待っていた。


翌日、トレーニングに来た翔吾がサンドバックを見て、番号が消えている事に気付いた。佐瀬が拭き取っていた。番号は頭の中のある筈だ、と。
いつもの様に佳菜子も来てカレーの夕食。翔吾にもビールを勧めるが、飲まないという。
この日も翔吾を佳菜子が送って行った。藤原がいつも言う「佳菜ちゃんに悪さするなよ」という言葉が却って二人の仲を接近させるかも知れない、と思う広岡。


翌週も翔吾は午後2時頃にやって来た。サンドバック打ちはこの一週間で動きが全く滑らかになっており、どこかで練習を続けているとしか思えない。
次に佐瀬がパンチングミットをはめて、翔吾のパンチを受け始めた。真拳ジムではミット打ちを取り入れていなかったので、広岡には新鮮に映った。
佐瀬が交代してくれというのを受けて、多少心臓が心配だったが、相手をする広岡。次いで藤原、更に星と2ラウンドづつで交代。結局8ラウンドのミット打ちまで消化して、この日のトレーニングは終わり、佐瀬がクール・ダウンを指示した。
夕食を五人で摂り、翔吾は四人の昔話にも付き合って十時過ぎに帰って行った。広岡は、面倒だから泊まって行け、と言いかけた事があったが、関係を深めて行く事にためらいがあり、それを言うことはなかった。


広岡たち四人はトレーニングのある日を心待ちにするようになり、翔吾もまた見る見る変化して行った。
ある朝、佐瀬が俺たちも走ったらどうだろう、と提案した。ミットで翔吾のパンチを受けるのにも体力が要る。広岡は、心臓発作を起こして以来、筋力トレーニングも避けていた。ただみんなが走るなら、と少しづつ慣らすことにし、そうして走るうちに楽しくなって来た。


広岡は真拳ジムに向かって歩いていた。前日に四人で話し合った中で、翔吾に試合をさせてやろうという話が持ち上がり、そうなると、どこかのジムに彼を所属させなくてはならない。それは真拳ジムしかなかった。その役目は広岡が引き受けざるを得なかった。


真拳ジムに行くのは3ケ月振り。令子は広岡たちが一緒に暮らしている事を知っていた。そして翔吾の面倒を見ている事を話すと令子は、その黒木翔吾が平井ジムの会長の息子だと話した。広岡は、翔吾を移籍させて試合をやらせたいとの思いを伝えた。令子は翔吾をジムのホープ、大塚のライバルとして見ていたので、1年近いブランクがある翔吾の力を疑っていた。

広岡は、翔吾は階級を上げるつもりだから大塚と戦うことはないと返したが、令子は大塚も階級を上げる準備をしていると話した。令子は、後楽園での試合の折りに黒木会長に話をしてみると言った。


いつもの様に土曜のトレーニングが終わって、夕食の準備をしている時、広岡が翔吾に声をかけて配膳の手伝いをさせた。豪華なメニューに驚く翔吾。広岡は、亡くなった会長の言葉としてボクサーがトレーニングをするのは、リング上で相手より自由になるためだ、と言った。料理もアイロンがけも、出来るようになれば、日常というリングの中で自由になれる。


夕食後、広岡は翔吾に令子との話を伝えた。どうして父親のジムが嫌だったのか、と聞く佐瀬。
父親は翔吾を日本最速のチャンピオンにしたかった。バンタム級の辰吉丈一郎が持つ8戦目の21歳という記録を破ろうとしていた。だが翔吾にはそんな気持ちがなかった。

その時電話があり、広岡が出ると令子だった。黒木会長に話したところ、よろしく頼むとの事だった。父親としての切実な思い。
次いで、翔吾に試合をさせたいという話にも脈がありそうだった。石坂ジムからの大塚との試合の申し込み。令子は断ったが、翔吾となら相手も乗って来るとの読み。
石坂ジムの山越はスーパーライト級の東洋太平洋チャンピオン。予定していた海外とのタイトルマッチが中止になり、対戦相手を探していた。翔吾が高校三冠だった事で、チケットも売れると踏んで、相手が乗って来た。だが対戦までに1ケ月しかない。


電話を置いて、広岡があらましの話を伝えた。対戦相手を翔吾は知っていた。山越ハヤト。17戦15勝2敗。
星が、そいつの戦いぶりを見てみたいと言うと、翔吾はユーチューブにアップされていると言ってスマホで検索した。だが画面が小さい。広岡が自分のパソコンでサイトを開いて皆に見せた。
見終わってから、星が「勝てるか」との問い。それに力強く頷く翔吾。
彼らの得意な技を教え込む時が来た。佐瀬が翔吾に向かって静かに言った「来週からは・・・・毎日だ」


感想

元ボクサー四人による、翔吾への本格トレーニングが始まった。四人四様の教え方に柔軟に対応して行く翔吾。俄然テンポが良くなって来て、毎日新聞を読むのが楽しみになって来た。
翔吾の父親。親父のやりすぎでボクシングそのものを諦めてしまったと思われた息子が、情熱を失っていなかった事を知り、広岡たちに全てを任せた。

父親経験者としては、実に心に響いた。息子がどうしようもなくなってしまった時、家族以外に頼る事も「あり」。




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