司馬遼太郎思索紀行。 番組表の題名は「日本人とは何者か」
番組情報
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160213
序章
明治の近代化は奇跡と言われる。また戦後焼け野原からの復興。
現在、大きな岐路に立つ日本人。
その事を生涯考え続けた人がいた。司馬遼太郎(没後20年)。
「この国のかたち」この意味を解き明かそうとした。膨大なナマ原稿、取材テープ。「日本人とはなにか」という大きな問い。ナビゲーター:香川照之。
その鍵となる「武士」「孤島」。これからの日本の大きな手がかり。幕末のあるものに注目。
「尚古集成館」。日本初の工業団地。
設立したのは島津 斉彬(しまづ なりあきら)。
島津は産業技術を興そうとした。必要なのは「鉄」。当時作った反射炉が残っている。高さ20m。
どうやって作ったか。長崎大にその手がかり。オランダの書物。ただそこには原理説明のみ(方法の記載なし)。
彼らは自分たちの力だけで反射炉を作り、炉の温度を1500℃に保った。そのためには湿度がポイントだという事も経験で知り、独自に完成。
ここが世界遺産登録されたポイント。本だけの情報でここまでやれたのはすごい(登録委員)。
幕末の日本人がなぜこれほど高度なものを作れたのか。日本人の特質→江戸期の好奇心が結実。
その好奇心はどこから来たか。
島国である日本。太古以来、文明という光源からは闇の中にいた。辺境の島国。壱岐にその痕跡がある。仏像。新羅の仏。7世紀に朝鮮半島から伝来。壱岐の人は海から来たものに尊敬の念を感じる。流れ着いたものを大切にする。こういう面が日本人の祖型。
石で組み上げた「唐人神」。異国男性の下半身が流れ着いたものを埋葬して祠を建てた。
海の向こうから来るものに特別な感情を持った。あこがれ、好奇心。司馬はそれをこの島で感じ取った。
好奇心が、ある時代に異様に高まりを見せた。江戸時代の長崎「出島」。
針で突いた孔から来るかすかな外光。
鎖国は日本人の知的関心を駆り立てた。
出島は端から端まで歩いて5分。長崎出島のオランダ人は十数人。国民全部がそれを受け止めた。
鎖国が却って好奇心を高めた。
日本人は外国の優れたものを取り入れて来た。そこにはより根源的なものがある。10月5日は東大寺の「秘仏公開」。僧形八幡神坐像 。
日本人の根源的考え方。儀式。「神仏習合」。日本古来の神道に対し、仏教を6世紀半ばに受け入れた。両者を活かす、独創的な着想。
なぜ着目したか。山折哲雄 が語る。イスラム教は絶対唯一。日本は多元的なものを認める。宗教、信仰も多様性を認める。
その源流にあるもの。奈良県、三輪山。山そのものが御神体。草木にも神が宿る(八百万の神)。多様な神を認める信仰。
一信教的思考は成立し難い。その理由は文明の中心から離れていたから。
神仏習合は、何者にも捉われない。思想的民族に日本人は入っていない→思想ゼロ。無思想という思想が根底にある。
何でもあり→捉われない柔軟さ。
日本はどんな文化を生み出したか。室町の子。
室町時代は日本文化の醸成期。
京都、大徳寺の大仙院。枯山水。水を使わずに風景を作る。水をも象徴にしてしまう。
本来庭園文化は中国から伝来した。池や川の流れを作った。
応仁の乱。水を流す余裕がなくなった。水の代わりに砂を使った。砂紋の幅で流れの強弱を表現。日本文化の形。
今日の日本建築→室町末期の書院造り。華道、茶道、能、狂言もこの時代から。
無思想の思想。それが強く発揮されたのが明治時代。
古市公威 。東大入って左手に銅像がある。東大工学部図書館に古市の講義ノートがある。フランス語で記載。数学、物理、建築と多岐に亘る。
欧州での調査旅行。多くを吸収。フランスから帰国後、国作り。西洋技術に独自の工夫を加えた。河川の氾濫に対しては堤防の基礎に改良を加えて採用。土木はモノマネではダメ。
人間的要素が近代化のポイント。古市は「文明の配電盤」と言われた(フランスで得た電流を学生に配った)。
その結果、アジアの中で産業革命に先んじた。
司馬の思い。明治には凄みがある。好奇心、新国家へのロマンチシズム。ドラマチックな歴史。これらを死の直前まで見つめ続けて来た。
気になる言葉があった→無感動体質になるのが怖い。20年前の言葉。大事なメッセージ。
司馬は東大阪に暮らし、日本人のことを考え続けた。
創業80年のネジ会社に司馬の直筆が掛かっている。「道なき道」。その会社は今でも新しい技術に挑戦している。
日本人は技術好き、モノが好き。道具を作ることに長じて来た。
日本がなくても欧州史、米国史は成立しただろう。
世界に「日本が存在してよかった」と思えること。それが「この国のかたち」。
感想
司馬遼太郎の作品は20代の時に「坂の上の雲」を読んでいる。また戦時中は戦車部隊に配属されており(著書「歴史と視点 」に記載)、機械的なものに対する見識には高いものがあった。
そういった点で、ここで述べられている古市などに対しては強い興味を持って取材していたのだろう。また地元が東大阪の町工場であった事も関連があった。
「モノマネ」「節操がない」とも言われる日本人の特質について、彼なりの洞察には十分な説得力がある。
日本人というのは、世界の中でも特異的なのかも知れない(褒め言葉だけではなく)。