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「暦のしずく」(8)第八章「公儀を畏れず」作:沢木耕太郎

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レビュー一覧            

  *1~5章の超あらすじは参照

「暦のしずく」(8)第八章「公儀を畏れず」
85(6/30)~89(8/3) 朝日新聞be(土曜版)
作 沢木耕太郎 画 茂本ヒデキチ

感想
文耕の話を聞いて、早速行動を開始した家重。

そのさなかに喜四郎と定次郎が駆け込み訴えを実行。
累が及んではいけないと弟子の伝吉に破門を言い渡し、源吉には余命いくばくもない井筒屋の希望を受けて、番頭に戻れるよう話をつけていた。源吉は、文耕が講釈を出来る事を条件にそれを受け入れ、自分の名で店を借り直した。
そうして始まった講釈だが、今まさに紛糾している金森藩の演目を行い、捕らえられてしまった文耕。
様子を見に来た意次は「公儀を畏れず」の言を撤回すれば助けられると持ちかけるが、それを断った文耕。

土曜版「be」が2週休んだと思ったら、いつの間にか終章「獄門」になっていた。
志を持って武士の道を歩もうとした文耕は、園木覚郎に師事したことで出世に対する願望を捨てた。そしてしがない講釈師を続ける中、自分の情熱を傾けるに足る「郡上一揆」に出会った。

もちろん、田沼意次と幼馴染だったとか、家重の前での講釈などはフィクションだろう。だが資料の少ない中、ここまでストーリーを膨らませ、楽しませてくれた作者に感謝。
あとは文耕が処刑される事になるが、さてどんな幕引きになるのか。心して追っていこう・・・

あらすじ
第八章 公儀を畏れず
一 85
意次から聞いたという里見の話から文耕は、家重がすぐに金森の一件を調べ直すよう命じたことを知った。
喜四郎と定次郎は、自分らの訴えの行く末を見守る事とした。
一方井筒屋の夜講だけでなく、采女ケ原の昼講もなく暇になった文耕は、貸本屋用の読物を書いては藤兵衛、藤吉らに渡した。

七月二十日に至り、評定所での吟味が正式に開始された。
詮議掛は阿部伊予守(寺社奉行)、神尾備前守(大目付)依田和泉守(北町奉行)、菅沼下野守(勘定奉行)、牧野織部(目付)の五名。彼らは裁判官であると同時に検察官でもあり、早速尋問を始めた。
事の中心にいたと見られる勘定奉行の大橋親義、金森家当主 頼錦に尋問が行われた。それらを逐一里見から聞く文耕。
だが肝心の一揆の件が、ないがしろにされている。

八月二十五日の夜、深川の料理茶屋で行われた喜四郎と定次郎の壮行会。明日、彼らが北町奉行所に駆け込み訴えをする。
駆け込み訴えとは、付添いがなく訴願人だけで直訴すること。
それを行えば、既に駕籠訴の後村抜けをしている二人の罪はいかほどになるか。それを配慮して俵屋が、文耕、源吉、伝吉、里見を招いて宴を設けた。二人の実直さに俵屋が心打たれたため。
文耕が着いた時には皆が揃い、更にお六と、年季が明けた小糸の姿もあった。戸惑いながらも、素直に受ける喜四郎と定次郎。
場を盛り上げるため、小糸に唄を勧める俵屋。だが主賓の二人は戸惑う。里見が「狐会(こんかい)」という唄を所望した。
故郷の郡上を思い起こさせるのでは?と言う文耕だが、気を遣わずとも大丈夫と返す喜四郎。
お六の三味線で小糸が唄う。 野越え山越え 里うち過ぎて・・
さすがに涙を流した喜四郎は、問われて妻子がいると話す。
文耕が、自分にはそれが居ないと話すと俵屋が、先月出した本に子のことが書いてあったと言う。
それは「当代江都百化物」の中での一節。深井志道軒をからかうため、伝吉の話を借りたと言う文耕。食い扶持減らしの話。里見が言う。「何も捨ててはいけません。故郷も、妻子も、命も」


二 86 7/13
名残惜しかったが、明日駆け込み訴えをする喜四郎と定次郎のため、早いお開きとなった。舟宿から出る二人を見送る文耕。
死が決まったかの様な、透き通った表情の二人。


その後お六は小糸と共に仲町に戻り、文耕と里見、伝吉と源吉が共に日本橋方面に向かった。もう少し行くと伝吉、源吉と別れる道の手前で、さりげなく伝吉に告げた文耕。
「伝吉、今夜でお前は破門だ」「はぁ?」微笑で返す伝吉。
今夜を限りに師匠でも弟子でもないと言う文耕に、一体どうしてと訊く源吉。「お前は黙っていろ!」意味が分からない伝吉。
もう私から学ぶものはない。先日講釈を覗いたが私よりはるかにうまかったと言う文耕。師匠の話しか語れないと言う伝吉に、遠慮なく使って良いと返した。とにかく今日のところは、と共に帰ろうとする源吉に「源吉にも話がある。松島町まで来てくれ」

里見と別れると自分の部屋に入った文耕は、源吉に言った。
このまま自分の弟子で居ると、万一の時には女房子供を泣かす事になるとと言う文耕は、九月の夜講でこの金森騒動を語るつもりだと話した。実は、七月から夜講が復活していた。
五月には死去していた井筒屋の主人。その主人から死に際に、源吉を戻してくれと頼まれていた。後を継ぐ息子はまだ七歳。女将は仕事を知らない。主人代わりの番頭となって欲しいとの願い。
源吉は、跡取りが十八になるまで勤め、その後は講釈師の修行に戻るのと、文耕が行う夜講を認めて欲しいと女将に申し出た。
すべて受け入れられた源吉は、借家だったその家を、文耕の弟子名「竹内文長」として借り直した。

商売は六月から再開し、文耕は七月十日から夜講を始めた。
まず、昨年十月に語ってもっと暑い時に聞きたいと言われた「皿屋敷あはれ菊の皿かぞへ」をやって好評を博し、八月には秋田騒動を講釈し直した。これも妾のお百の話を膨らませ大入り。
その井筒屋の夜講で、いよいよ金森騒動を語る。もしこれをやれば、今度こそ奉行所が黙っていないかも知れない。
今まさに評定所で判決が下されようとしているものを語るなど、もってのほかという事になる。
「そいつは弱りましたね」お前も破門にしようか、と文耕。
それには及ばないと言う源吉。店の借り主は自分の名にしているため井筒屋や女将に累は及ばない。
「そうか、それなら来月の夜講は金森騒動で決まりとしよう」

三 87 7/20
江戸の町にも郡上の騒動は伝わっていた。そんな中、九月十日の夜に文耕はいよいよ井筒屋で金森騒動の講釈を始める。
題して「真説 森の雫」何故この期に及んで講釈するのか。
里見によれば、評定所では金森、幕府双方の詮議中だという。
その時に詮議係の田沼意次が、金森家に咎をつけると言っても、百姓にも重い咎を付けることにはならぬと言ったという。
それは詮議する側へのけん制。また講釈で、駕籠訴等の訴えに頼んだことがやむを得なかったと江戸の民に知らせたかった文耕。

文耕は時代を置き換えたり、人名も換えたりせず、まずは郡上藩主の金森頼錦と老中本多正珍との因縁から入った。
だが、頼錦を必要以上に悪者にするのは避けた。

善政を試みたが目安箱は失敗し、奏者番として名を上げようとしたが却って財政逼迫を起こした、と。
十夜連続で続く講釈のため、簡単な粗筋を書いた冊子を中入りに籤取り(クジ引き)で配る事を源吉が提案し、それを受けて文耕は「ひらがな もりのしずく」とした六葉の冊子の原稿を渡した。十冊を配った源吉。手から手へ渡る事で話が広く知られる。

二日目以降も籤取りは行われ、それを目当てに来る客も増えた。
やがて籤取りではなく金を払ってでも欲しいという者も出て、五日目からは籤と別に一日二十冊を一冊二百文で売ったが、瞬時に売り切れるほどの騒ぎになった。

九月六日、講釈開始から七日目。開始の遥か前から人が並ぶ。
この日は山場である、立者百姓による駕籠訴の場面。訴えが叶いそうになったが、老中や奉行らの力が加わったかもという仄めかしにより、客の間に怒りの感情が生じて来た。その後起こる、藩の役人による立者百姓への襲撃の前で、その日は終えた。
「今宵はここまで」と文耕が宣した時、武士が声を上げた。
「そのまま、そのまま!」奉行所の同心だった。誰かいるとは思っていたが文耕も意表を突かれた。「誰も動くんじゃねえ!」
文耕に、他家の内実をみだりに流布した、縄につけと言った。

籤取りで手にした冊子も戻せという。小者が指示を受けて動く。
冊子が十冊集まり客らは帰された。文耕に縄をかけようとする。
夜の飯ぐらい食わせろ、と文耕。その凄みに押される同心。
二階で、おかみの用意した飯に銚子で一本飲んだ文耕。
そして源吉に、長屋の書き物を全て運び出して燃やす様指示。
そして階段を下りると同心に向かって言った「参ろうか」

四 88 7/27
文耕が捕らえられ、小伝馬町の牢屋敷に送られてはや二カ月。
文耕が入れられたのは「揚り屋」と呼ばれる、比較的程度の良い牢屋敷。誰かが手を回してくれた。里見か、田沼か。
与力による取り調べは二度ほどであり、大名家の内情を話し、それを冊子にして籤取りに出し、また売ったことは素直に認めているため、罪状は明らか。だが与力は、これらの話を誰から聞いたかに拘った。文耕は、全て自分の所業だと撥ね付けた。

だが、判決がなかなか出ないのが不思議だった。同じくこの牢に居る、喜四郎たち百姓が受けている仕打ちを気に病む文耕

八月二十六日、喜四郎と定次郎は北町奉行役宅に駆け込み訴えをした。北町奉行の依田政次は、村抜けをした上での訴えを格別不埒としてお縄にし、すぐ小伝馬町の牢屋敷に送った。
一方九月二日には将軍家重の意により、老中本多正珍が御役御免、老中職解任となった。その翌日の九月三日、田沼意次が一万石に加増され、老中格として評定所の詮議に加わった。
九月から十月にかけては幕閣や役人に対する調べが進み、十月末には領地召し上げや閉門等の厳しい判決が下された。
十一月からは金森藩の役人や、一揆側の百姓らへの取り調べが本格化。百姓らに対しては、騒動の首謀者が誰かの特定が最重要とされた。拷問を受け、半死で戻る者らを見て胸を痛める文耕。 
ついに喜四郎が、瀕死の者を隔離する浅草の溜に送られた。

その日文耕は、取り調べのため網をがぶせた駕籠で評定所に運ばれた。詮議掛は寺社奉行の阿部、勘定奉行の菅沼、大目付の神尾、目付の牧野、北町奉行の依田。(家紋で判断)
そして奥の桟敷には老中の松平武元。
文耕の自白書が読み上げられ、申し開きを求められた。
全ての発端は領主が過酷な年貢を取るため、幕閣重鎮の力に頼んで誤りを重ねたと断じる。ひいては幕府の弱体化に繋がる。
沈黙の詮議掛。文耕が話し終わると松平武元が「そなた、郡上の百姓たちと会ったことはないか」と訊いた。否定する文耕。
百姓の中に「公儀を畏れず」と申す者が現れたという。
配ったひらがなの冊子にも生々しい表現があった。あるいは、それを言ったのは定次郎かも知れないと思った文耕。
公儀を畏れず!もしそうなら、よく言ったと褒めるべき。
「その疑い、喜んで引き受けましょう」と笑う文耕。
畏れるものは天のみ。天の道に外れたものは畏れるに足らない。

五 89
十一月末から十二月にかけて、金森騒動に関する吟味は大詰めを迎えた。それにつれ、入牢している百姓も次々と死んだ。
そんなある日、牢から呼び出された文耕。向かったのは拷問蔵。
過酷な拷問を加える場所。さすがに怯んだ文耕だが、そこに居たのは田沼意次。二人だけにと指示した田沼に従う牢屋同心。
顔を和らげた田沼。「難儀に遭われましたな」
揚り屋に留まれたのも田沼の配慮。
田沼の話では、幕閣の重臣に厳しい判決が下されたという。

それもあって、訴えを起こした百姓にも厳しい刑が下る。

その背景にあるのが「公儀を畏れず」という彼らの言葉。
文耕についても秋田の佐竹家だけでなく、金森家を題にした講釈で町触に違反しており、南町奉行所が動いた。
だが本来その程度なら刑も追放か遠島止まり。だが「公儀を畏れず」という妄念を百姓に吹き込んだのが怒りを買っている。
上様も何とか出来ないかと考えたが、詮議への横槍は難しい。
だから、と続ける田沼。「公儀を畏れず」の言を撤回してくれれば助けることが出来る、と言った田沼。


百姓たちが命を懸けて発した言葉は汚せない、と言う文耕。
左京殿にはまだまだ助けてもらいたいと言う田沼にも、別の世の話にしか聞こえない。

その夜、文耕は囚人が厠に立つ音で眼を覚ます。

そんな事を気にするうちに眼が冴えて眠れなくなった。
田沼によれば、刑は遠島で収まらないという。とすれば斬首。
刀を捨てた時、何かを為そうとする思いも消えた。
ただ、と脳裏にいくつかの思いが巡る。郡上の百姓を助けたいと講釈を始めたが喜四郎も助けられず、何も為さなかった。
妻も娶らず、子も生さなかった。ふと一色の田鶴の面影が浮かんだ。もし娶っていたなら、どのような日々だったか・・・

明け方が近づき、闇が薄くなって来た。夢なのか、美しい森の木立が見えてきた。朝靄が木々の間を流れている。
そして木々の間に細い水の流れが。雫が集まったもの。
流れは森を抜け、その先へ流れようとする。野に流れ出し川となり、やがて田畑を潤すかも知れない。
森の外は眩しいくらいに陽の光が輝いている・・・

 

 

 


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