朝日 新聞小説「人よ、花よ、」(9)
第九章「吉野騒乱」 353(8/13)~398(9/29)
作:今村 翔吾 挿絵:北村さゆり
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感想
茅野に乞われ後村上帝警護のため南朝御所に入った多聞丸たち。年末から年明けにかけて無事に済んだものの、正月十日の深夜、襲撃を受ける。帝の寝所に駆け付けるも、そこに帝はおらず。
帝は「すでに逃げた」と言った阿野がその人だったとはナイスな展開(笑)そらー確かに帝のことを「逃げた」と言える者はそうそう、いない。
しかしこの帝、お坊ちゃんと思いきや裸足でガンガン走る行動派。「顕家など・・・・この程度ではない」との言葉で、その当時の行動が窺い知れる。
ここは第三章「桜井の別れ」135回で北畠顕家が高師直との戦いに敗れながらも、若き日の後村上帝を守ったことが記述されている。戦巧者の顕家とのやりとりはどんなものだったのか。
襲撃を収めたのち、帝に素性を名乗った多聞丸。
お目通りが叶うどころの騒ぎじゃない(驚!)
これ以上ないというこの出会い。そらー北朝へは、行けんな。
次章は「牢(いけにえ)の血」
あらすじ
第九章「吉野騒乱」
353
年が明けた。ここでの正月行事の多さ。
354
公人として従事する以上忙しいが、楽しんでもいる多聞丸。
ただこの身分では、やっている事の意味までは判らない。
帝の存在は遥かに遠く、未だ姿を見た事はないが、一度だけ御簾越しにその存在を感じた。
茅乃の口利きもあり元日翌日の小番付きに新発意が抜擢された。
供になったのは藤平という若い公人。新発意は気合いを入れ過ぎてもたず、途中で起こして逆ギレされたと零す藤平。
その正月二日、警備を厳重にせよとのお達しが出た。とある公家から足利直義が刺客を放ったという噂が上申されたのが原因。
噂の元を追及され、京に残っている公家との文通だと白状した公家。
355
この公家が罰せられる事はなく京に残った、つまり北朝に属する公家との文通は珍しくもない。呆れる多聞丸に同意する茅乃。
南朝の機密はかなり漏れていると見た方がいいだろう。
翌三日もまた動きがあった。三日から四日の小番付きを終えた多聞丸に、大塚から来た書状の事を教える新兵衛。
足利直義が吉野に七十余の透波を送ったとのこと。
次の務めまでの間に、多聞丸は皆に諮った。
流言という事も考えられると言う新兵衛。状況から見れば自然。
356
だが、何のためだ?と次郎が訝る。新兵衛も同意。
考えられるのは混乱に乗じて吉野に攻め込むこと。
しかし野田の調べでその気配はない。
もう一つ考えられるのは我々のこと。帝の暗殺という重大事を以って楠木党の動きを見極めようとしている。北朝も真意を知りたがっているか。
そうだとすれば、我々がここに居ることは知られていない。知っていれば試金石の様なことはしない筈。刺客を放っておいて何故わざわざ報せる?と混乱する新発意。
357
様々な推理が交錯する中やはり本命は?と問う新兵衛に
「ああ、師直だろう」直義が放った刺客を邪魔しつつ楠木党の動きも探るという、一石二鳥の意図。
東条への書状にあった七十余名と、実際野盗に襲われた武士の数が符合する・・つまりは直義の放った透波である見込みが高い。その透波が野盗に襲われて負けた。師直の手の者と見ていい。
それを聞いて驚く新発意。犬猿の仲とはいえ、同じ陣営でそこまでするのが理解できない。
358
師直には、帝が討たれてはまずい訳があると諭す新兵衛。
北朝に降るにあたり師直、直義の周囲を調べるほどに師直の求心力の強さを感じる。高一族なくば南朝を滅ぼせないとの考えも。だが直義が帝を討てば師直は用済み。滑稽ではあるが、利害一致により己たちと師直が暗に共闘した形になっている。
その武士の一行は、まだ四、五十人は残っている。多分深追いはしないだろう。あとはそちらでどうにかしろ、との師直像が茫と浮かぶ。
その翌日の正月五日、大塚からの知らせでは、和泉国 大塚の館にも書状が置かれていたという。
359
こちらも差出人は判らないが、先のものと内容、筆跡が一致しており多分同一人。届いたのは楠木館から二日後。
この事で「楠木党を探っている」と確信した。
父の死後、名代として楠木党のほぼ全てを仕切って来た大塚。その気があれば乗っ取ることも出来たが補佐に回った。三年ほどかけて多聞丸が務めを果たせる様になったのが四年前の十八歳頃。
実権を誰が握っているかを見極めるため敢えて二日空けた。
楠木館は書状を送った透波により監視されている。
「やはりそうか」
360
事実を淡々と報告するのが常の大塚だったが
「文の主、師直と思しき」と初めて自身の推論を添えた。
年が明けて八日目、次郎と掃き掃除をする多聞丸。
減ったとはいえ、未だに儀式が行われる。掛かる金を他に回した方がいいと言う次郎。だが、必要に迫られてやっているのかも知れない、と言う多聞丸。
後醍醐帝が吉野に移って十年。
発足当初の臣は残っておらず、英雄正成の子というだけで己を招こうとするほどの人材不足。
361
巻き返しが難しければ、南朝にいても先の望みは薄いと気付かれる。「我らこそ正統」との裏付けのため、これら儀式を取りやめられない。
来てみなければ解らぬ事があると言う多聞丸に
「今後の事も変わりますか」と御屋形に対して問う次郎。
「いや、それはない」
戦を終わらせる近道はやはり南朝の崩壊。
ならば北朝に付くべき。北朝に勝る事が出来なければ、今すぐ矛を収めるのが民のため。
その時、足音が聞こえたので二人はさっと地に拝跪した。
これが決まり。
「励んでいるようだな」声に聞き覚えがあった。「面を上げよ」
362
更に促されてゆっくり顔を上げると、そこには坊門親忠の丸い顔。勤めは如何じゃ、と語り掛ける。
採用の裁可に関わったためか。
「話して構わぬ」と言われ驚く多聞丸。
御所での決まりにはまだ疎い。
確か兄弟であったな、と記憶を辿りながら話す。
仲がいいと言われ戸惑ううちに次郎が
「側で兄を支えるつもりです」と代返。
「であるか。それは良い」
と頷く親忠だが、その目が寂しそうだった。
--親忠には確か兄がいたはず、と思い出す多聞丸。
363
「殿・・・でよろしいのでしょうか」と呼び方を確認しつつ、御兄弟はおられますかと問う多聞丸。
兄が一人、妹が一人との答え。
この様な僥倖に恵まれ、是非とも御兄妹様にも御礼したいと伝えた。何かある、との直感。楠木家は坊門家とは因縁がある。
父が湊川へ向かった後、坊門家が如何に生きて来たか気になっていた。
咎められるまで踏み込もうとの気持ち。妹はすでに嫁いだと頬を綻ばせる親忠。やはり表情が曇った訳は兄にありそう。
更に訊いた。「兄上様は」
364
次郎も意図を察して動向を見守る。
「麿とは似ても似つかぬ」と言った親忠。
重隆という五つ上の兄は痩せぎすで亡父清忠そっくりだとか。
母似でふくよかな親忠。
ここにはいないと聞いて「お躰が・・・」と聞きかけると
「向こうにいるのだ」
つまり北朝側にいるということ。
十年前、後醍醐帝と共に吉野に来たが父 清忠が九年前に死んでから北朝に奔った。そういうことか。
下唇を噛む多聞丸。
坊門家も、南朝がこの争いに勝つとは信じていないのだ。
365
重隆を北朝に行かせ、次男の親忠を南朝に留まらせる事で、どう転んでも坊門家を残す算段。
「正気とは思えぬ・・・」呟く多聞丸。
父の献策を退け、死に追いやった一方で両朝に二股をかけ生き残ろうとする。正気とは思えない。
「何か申したか?」と親忠。
込み上げる感情を口にした。
「殿は楠木正成をご存じですな」
次郎が小声で制するが、腹を括っている多聞丸。
「河内判官のことじゃな」「如何にお考えか、お聞かせ下さい」狼狽する親忠に迫る多聞丸。
366
さすがに尋常でないと覚った親忠は、河内判官と会ったことがあるかと訊ねた。「あります」多聞丸らを、助力を得た者だと早合点したが無理もない。「知っておるのじゃな」
父 清忠が献策に反対した件の事。
「ふむ・・・」瞑目する親忠。言い訳を考えているのだと覚り、話を終わらせようとした多聞丸。
「無礼なことを申し上げました。ご容赦・・・」
「真のことじゃ」「と、仰いますと」
「父上が最も反対した。確かに間違いない」
367
苦悶に染まる親忠の表情。
朝議には出なかったが話は聞いたという。「何と」
「兄上、それ以上は」制する次郎。今の己たちは公人の身。
「よい、構わぬ」怒りは一切見せず続ける親忠。
父上は真にあれが正しいとお考えだったという。
一つには足利勢が烏合の衆だとの侮り。
二つ目は京を捨てる事による威信の失墜。
そして三つ目は河内判官なれば必ず勝つとの思い。
清忠は本気でそう信じていたという。
「ち・・・楠木様は摩利支天ではないのです」
思わず父と言いかけた。父が摩利支天の小さな像を兜に入れていたのを覚えている。
368
気付いた時にはあとの祭りだったと続け、父上も悔いていたと言った。「そのようなことは・・・」聞きたくはない。
拳を震わせる多聞丸。
居直ったり、言い訳された方が余程よい。
--坊門殿を恨むな。あの日の父の声が蘇える。
だが後悔していると言っても清忠は息子を両朝に配して保身に走った。
「得心出来ません」絞る様に呟く言葉に
「無理はないじゃろう」
この男は真に優しいのだろう、それがまた腹立たしい。
「私は・・・」と口走りかけた時、別の公家がやって来た。
気付いた親忠はこちらに「働け」と冷たく言い放った。
これこそが思い描く公家。
369
親忠の思いは暫し待つように・・・と視線を送る。
が、多聞丸はその場を去り、次郎も倣った。
坊門家に対する思い、怒り。様々なことが頭を旋回する。
※
親忠と話した二日後、多聞丸は石掬丸と共に小番付きとして殿舎に詰めていた。「この油・・・」と顔を顰める石掬丸。
先ほど小番の公家が灯火に油を注いだ。次の注油のための桶が臭う。「ああ、臭うな」今回の桶には荏胡麻油に安価な鰯油が混ざっているのだろう。南朝は、苦しいとはいえども鰯油を混ぜねばならぬほどとは思えない。「恐らく騙されて売られたのだろう」
370
それを聞いて安心したと言う石掬丸に、金がないより悪いと言う多聞丸。一つには油を買い付けた者が品質を確かめていない事。二つ目は売った者が南朝を舐めきっている事。苦笑する多聞丸。
「多くの者を死なせてまで守った威光がこの様だ」
庶民にとって大切なのは日々の暮らし。帝や朝廷は遥かに遠い存在。だが問題はこれをどうするか。
鰯油などが混じってもいいものか。
「かなり煙も出ますし、何より臭いが・・・」と石掬丸。
371
混合油であるため若干はましだと思われるが、それでも四方に灯せば相当な臭いが立ち込めるだろう。
蔵人を務める公家に相談した多聞丸。絶句した公家。
だが怒りの言を漏らすだけで指示はない。何とかしろと命じられ、倉庫に行って荏胡麻油だけの桶を見つけて来るのが次善策。石掬丸が取りに行った。
公人はあくまでも蔵人の手伝いだが、目的から言えば二人とも不在になるのは避けるべき。
「あと十日ほどか」と呟く多聞丸。
372
直義からの刺客がすぐ襲って来ると思いきや肩透かし。
茅乃の心配をよそに、正月行事は減り日常に近くなった。
状況把握も出来、引き揚げる時期も模索せねばならない。
そんな事を考えていると、石掬丸が急ぎ戻って来た。
何者かが塀を乗り越える人影をはきと見たという。
少なくとも五人。
侵入者の全貌を知るより報告を優先させた。正しい判断。
「手筈通りに」「承知しました」石菊丸が駆け出した。
373
この時に備え、段取りを決めていた。一つは上役の蔵人の指示なく動くこと。。二つは小番付きのうち武芸に長けた方が残り、もう一人が侍所に喚いて告げ、楠木党にも知らせる。そして三つ目。残った方は一切の躊躇なく寝所に駆け込んで帝を守護する。
「曲者です!」遠くで石掬丸の声。同時に立ち上がる気配。味方だけでなく敵も察知された事で隠密を捨てた。
「叢陣でも破られたか・・・」走りながら忌々しく呟く多聞丸。
父正成が生前に生み出した三つの戦術。一つ目は「蕾陣」
突撃が止められた時、左右に展開すると同時に後続が第二の突撃。灰左ら吉野衆との喧嘩で用いたのもこの蕾陣。
374
二つ目は茅乃を探す時に初めて用いた「波陣」
広範囲の索敵と即座の伝達を可能にするもの。
そして最後の三つ目は「杜陣」兵を等間隔に並べて配置し、敵の攻撃を即座に察知する。父はこれで敵に付け入る隙を与えなかった。
最終の打ち合わせで大塚は「杜陣を布こうと思います」
と言った。山からの侵入を想定していた。
「一つ、良いか」と訊く多聞丸。
杜陣には弱みがあると言う多聞丸。父の死から数年、大塚の下で軍学を学んだ。その中に先の三つも含まれている。
この杜陣に関しては一度も采配した事がない。
375
その後も多聞丸は研究を続け、工夫の余地がある事に気付いた。下赤坂城、後醍醐帝の挙兵に呼応した戦いで用いたのが杜陣。
この戦いで兵糧攻めに遭い、屍を焼いて身代わりとし城を捨てて逃れた。
だがこの時の決断の原因は杜陣が破れらたから。
当時大塚は十九歳。今でも鮮明に覚えていると話した。
城を囲むように杜陣を張ったが、どうしても人数は足りない。
笛を吹く間もなく鎮圧されたと父は見立てた。
「あれは間違いなく足利軍でした」「直義だな」
「はい、あの頃から透波を使っていたのでしょう」
大きく頷く大塚。
376
大塚はこの経験から透波を増やし、鍛えることに注力した。
あの下赤坂城で杜陣が破られた時、味方が気付くには陣を二、三重にする方法があるが、楠木党の規模では難しい。
そこで多聞丸が考えたのが「順に配置を入れ替える」
順繰りに動くのだ。だが動いたその場に穴が空くと指摘する大塚。故に余りの一組を作ると言う多聞丸。
動き出した直後、それが入る。
377
「確かにそれならばいけますな」と力強く頷く大塚。
だが組が多い時は一巡する時間が延び、気付くのが遅れる。また兵の疲労も考えると、余りは数組必要。
だが兵法を極める努力に、大塚は手放しで褒めた。こうして兵法を考える事が、父と語らっている気分になる多聞丸。
この兵法の名付けを大塚が求めると、敢えて逆らわず「叢陣と」
杜よりも隙間ない、草叢の名を冠した。頷く大塚。
多聞丸は気配を感じながら駆け付けた。
侍所の武士が向かっている様だが、未だ遠い。
378
「大塚、頼む」叢陣も既に破られた。この陣の強みは素早い察知。こちらに向かっている事を祈る。
ここまで侵入した時点で敵も相当な連中。
広庇に出た所で影がぱっと散らばるのが見えた。数が多い。
判っていた事だが、小番付きの二人は増やす事が出来なかった。
結果、この事態である。侍所の者、次郎、灰左らが駆け付けるまでを凌ぐ必要がある。先の静寂が嘘の如き喧噪。
「よし」曲者より早く帝の寝所の前に辿り着いた。
379
多聞丸は迷いなく戸を開けて寝所に飛び込んだ。
厳かな香の匂い。
「御免」と御帳に向かい帷子を開いた。「いない・・・」
「主上、公人の太郎と申します。お守りするために参上しました」だが応答はなく、微かな気配さえ感じられなかった。
四方八方から跫音が聞こえる。刺客が迫っていた。
さらに遠くからは怒号。侍所の武士と刺客が激突した。
刺客は武士の足止めと帝暗殺の二手に分かれている。
380
今最も有力なのは、帝が一人でお逃げになったということ。
帝が単独で退避。通常考え難いが、前回の大胆な行動から見ればあり得なくはない。
「厄介な」舌打ちして身を翻す多聞丸。
何処かに行かれてしまう方が余程守るのが難しい。
外に出た多聞丸に迫る影が左右から。手には抜き身の刃。
右に三人、左に一人。行くなら左。
「お助け下さい」と公人を装って油断させる。距離が詰まったところで刺客の腕を掴み投げ飛ばした。そして刺客の右手を絡め取り、腕をへし折った。「があっ-」という悲鳴。
その刀を奪うと右の刺客三人を牽制した多聞丸。
381
「公人はこれほどに強いのか・・・」一人が声を漏らす。
明らかに武の心得があると言う小兵。
更にこのような目をした者は、同じ穴の貉かもなと重ねた。
透波をもってしても己は武士に見えぬか。
--やるか。と己に問う。脅威を減らすに越したことはないが、今は帝の保護が先。多聞丸がだんと床を踏み鳴らし、敵が身構えた隙に身を翻して走り出した。
「追うぞ!」の声に「放っておけ」と小兵。
走り進むと公家が恐る恐る顔を出し、多聞丸を見ると逃げて行った。残る公家たちも、帝を守るため動いている様には思えない。
382
広庇の次を曲がった所で数人の刺客を見つけ、身を隠す多聞丸。
建物には詳しくない。先の公家に何か聞くべきだったと悔やみ振り返った時、そろりと部屋を出る人影が見えた。装いは公家。
急いで引き返した。「お待ちを。公人です」低い声かけ。
「真か」足を止めて訊き返した。声が若い。
「太郎と申します。小番付きで、主上をお守りすべく参上しました」「此方へ」と返す公家。
端正な顔。目が力強く、歳はやはり若い。
・・・誰だ。この十日あまりで見掛けたことがなかった。
公家が己の手を見るのを察し「先刻、拾いました」と答える。
383
「そうか」殺すつもりのない事に頷く公家。
主上の行方を聞くと「・・・すでに逃げた」微かな違和感。
「真でしょうか」先刻逃げた公家と同じ類か。
「うむ、確かだ」はきと答える。嘘はない様だ。
その時、広庇の角から滲む影。
「御免」そう言って多聞丸は公家が出て来た部屋に、倒れる様に一緒に入った。素早く戸を閉じる。
「助かった」公家は安堵の息を吐く。疑念はこの公家とて同じ。
「貴方様は」と訊く。多少残る疑念。
「・・・阿野という」名乗るのに僅かな間があった。
384
阿野という姓が気になった。羽林家であり高い家格ではないが、阿野廉子の名で知れ渡った。
後醍醐帝の寵愛を受け五人もの御子を生んだ。その一人が今上、後村上帝。有名とはいえ美名ではなく、後醍醐帝に讒言して護良親王を見殺しにさせたと言われている。
父の話では美しい人だったという。この公家の顔も整っている。
「真にお逃げになったのですね」不遜を承知で訊く。
「信じろ」阿野は真っすぐ向いて答えた。
まもなく援軍が来る、数で勝るため大丈夫と多聞丸は断言した。
「解った。それまでここに忍ぶか」阿野はか細い声で語った。
385
それは難しいと返す多聞丸。
帝殺害に手間取れば、火をかけられる。
また、間もなくここに踏み込んで来ると言った。
「ここから出て逃げます」
帝はすでに逃げており、茅乃との約束は果たしたが、この公家を見捨てて逃げるわけには行かない。五つ数えるうち四で自分が出るから五で続いて下さいと説明すると、四は縁起が悪いので五と六で頼むと言った公家。貴人のずれた常識に苦笑する多聞丸。
「頼む・・・ぞ」見捨てられる不安を表情に出す公家。
386
「ご安心を」と断言する多聞丸。敵は四、五人と思われる。
刺客が他の部屋に移ったとみて数え始める。「・・・・四、五」
勢いよく飛び出す多聞丸。だが広庇の角に刺客がいた。
「いたぞ」男がすかさず告げる。阿野が続いて飛び出した。
「来い!」叫ぶと同時に駆け出す多聞丸。
阿野もすぐ後ろに続く。
この男を斬らねば阿野を無事に逃がせない。
387
迫る刺客との間が詰まる。敵の死角で刀を逆手に持ち替え、降り下ろされた両腕をかち上げる。
「がっーー」という呻き。
同時に「行け!」と命じる。脇を抜ける阿野。
その後次々と刺客が現れる。--多過ぎる。
瞬時に旋回し、透渡殿に近付いた阿野に追い付いた。
「もっと速く」と先導する。敵との距離はぐんぐんと詰まる。
透渡殿が終わる先の通路が左右に分かれている。
一瞬迷った時「左へ」と道を示す阿野。
「承知」少なくとも己より御所に詳しい。
388
だが透渡殿の先で踏み止まる手もある。
先の広い場所より守り易い。
そう思った瞬間、向かう先の東対から公家の姿が見えた。
夜目が利かず戸惑っている。
「右だ!」公家の居る左とは逆を言う阿野。
透渡殿を抜ける時、左にいた公家に「逃げろ!」
と叫ぶ阿野。
公家は、阿野だと知って「あっ!」と吃驚の声を上げる。
「よいから逃げろ!」と命じ阿野は右に折れ、それに続く多聞丸。刺客の群れは一旦公家を追いそうになったが、己たちを追って来た。
389
このままでは追い付かれる・・・
その時「兄者!」と新発意の大音声。
あれは、と聞かれ一騎当千の公人と答えると驚く阿野。
脱出口を訊くと外門までの道筋を言う阿野だが、重ねて外に待ち受けている見込みはないかと問う。「有り得ます」
壁超えは手間取る、と阿野。
この男の冷静な思考に驚く多聞丸。
「では如何に」
「中庭を抜けて引き返すのはどうだ」「なっ・・・」
外に逃げると思わせ庭から回って御殿を目指すというのだ。
390
新発意の声がした方を示す阿野。合流を示唆している。
「そうしましょう」と返す多聞丸は、いざという時は次郎、新発意、新兵衛と連呼を、と指示。「覚えた」
迫る刺客。「門へ向かっているぞ!」の声の瞬間、中庭に跳んだ阿野。
「なっ・・・」と吃驚の声。多聞丸も続けて跳ぶ。
当然裸足だが躊躇いもなく走る阿野。
「公家とは思えませぬな」追い付くなり思わず零す。
「様々よ。顕家など・・・・この程度ではない」
更に足を速める阿野。
「まさか・・・」多聞丸の脳裏によぎったこと。
先刻帝の行方を訊いた時--すでに逃げた、と答えた阿野。
その違和感。あり得るのか。
阿野は鋭敏にそれを察して「互いにな」と先んじて言った。
391
己がただの公人でないと気付かれている・・・
何故露見したのか。
ここを切り抜けた後、如何にして吉野を去るか・・・
「今は逃げ遂せる事だけを」走りながら言う阿野。
「承知」雑念を払う。
「次郎!」更に新兵衛、新発意、石掬丸の名を連呼した多聞丸。五感が研ぎ澄まされるのを感じ、阿野の背中を守りつつ駆けた。
先にぱらぱらと影が見えた。
緊張する阿野。「味方です」と多聞丸。
「この御方を守護せよ!」
「応!!」と咆哮しつつ来るのは新発意。
どこで調達したか、へし折った柱を持っている。その直後、阿野と多聞丸の間を礫が翔け抜けた。刺客が悲鳴を上げる。
392
「おぉ・・・」阿野が思わず耳を摩る。
「石め」と苦笑の多聞丸。
その直後に新発意とすれ違った。
「命が要らぬ者は来い!」と哮る。
襲い掛かる刺客に新発意は竜巻の如く暴れ、石掬丸の礫も飛ぶ。そこに駆け付けた新兵衛。
阿野に止まるよう促し、多聞丸も止まった。
新兵衛に状況を訊く。阿野を見て口籠るが「構わぬ」
先刻山(大塚らの隠語)が合流し戦いが始まっている。
特に灰の字の奮闘が凄まじいと言った。
灰左の、この一戦に対する想い。
刺客らも冷静さを取り戻し、新発意らと互角の戦いをしている。
393
「私が」と新兵衛が出ようとするが「いや」と制する多聞丸。
新兵衛の最も優れたところは智嚢。武に関しては己が上。
「俺が混じる」との言葉に「混じる・・・か」阿野が息を漏らす。子供の様な言い回しが可笑しかったか。
「この御方を頼む」「しかし・・我らは」
帝以外は構うなと言われていた。
「いや、そういうことだ」「なっ--」狼狽える新兵衛。
「ああ」己が察していると感じたか阿野は「そちらは東条だな」
まさか正体まで見抜かれていたとは驚いた。
「阿野様と公人の太郎。それで」「解った」の返事。
思考を振り切るように怒号の渦に飛び込む多聞丸。
394
気付いて振り返った男を斬り捨てる。
「遅い!」と新発意。「悪い」
御所に、吉野に人の声がこだまする。月は輝き、星は瞬く。
※
多聞丸が加わり、分が悪くなったと察して透波が退却を始めた。新発意が追おうとするのを「放っておけ。表に回るぞ!」
阿野を隠す事も考えたが、共に行動する方がましと考えた。
一段高いところから見下ろすと凄まじい光景。
両軍数百名の戦い。
新発意が加わろうとするのを止め
「この御方の周りを固める」
反論しそうになる新発意に「聞け」と抑え込む。
頷く新発意。
395
「侍衆!踏ん張れ!」と声を出す次郎。
応という声が上がる。
「一天万乗の帝に弓引く賊ばらめ!」難しい文言を放つ灰左。帝を守って戦うのが夢だった。
凄惨な場面で帝の名が飛び交う。
歩み寄ろうとする阿野を
「私の後ろに」と手で押し下げる多聞丸。
「仕上げに掛かっている」大塚の姿を見つけて呟く。
大塚は刺客たちの退路を断ちつつあった。しばらくして刺客もそれに気付き、逃げ出そうとする動きで群れは一気に浮足立った。次々と討ち果たされる刺客。
396
透波として生きても、母か妻の名を叫んで果てた者もあった。
最悪の状況下でも、帝を討つことを諦めない者もいる。
「あいつら・・・」先刻御殿で対峙した小兵と大柄の刺客を見つけた。その小兵が一瞬こちらを見た。
「大塚!そいつを仕留めろ!」
大塚が存在に気付いた時、その二人が囲みを突破し大柄が味方の群れを一手に引き受けた。
小兵が疾風を纏いつつ向かって来る。
その表情は鬼気迫り、すでに死を覚悟している。
397
阿野の正体には気付いていないながらも、名のある公家を道連れにとの思いだろう。己たちとの間には一兵もいない。
「新発意、行くぞ!」
迫る小兵に新発意の角材が振り下ろされた。
よけるところを斬ろうとしたが、左腕を捨てて受けた小兵は肉迫。刃の錯綜。
小兵の刀は宙を舞い、己の刀が小兵の胸を貫いている。
「お前は・・・」小兵が声を漏らした。「東条だ」
「・・・得心した」
魂が抜けた様に躰から刀がゆっくり剥がれていく。
小兵を離して静かに横たえた。
398
大勢はいよいよ決し、刺客を殺さず捕らえる余裕も出来た。
灰左は太刀を掲げ、吉野衆に勝鬨を促す。
そして阿野、いや--
割れんばかりに歯を噛みしめ、この光景を見据えていた。
視線が宙で絡みあった。
共に過ごして数年経ったような感覚。
向こうもまた同じような思いか。
「この戦・・・」真実を告げなければ。
「この戦と同じことが。早十数年、日ノ本中で起こっています」そして「二人の帝の名の下・・・貴方様の名の下に」
「そうか」これで確とした。
この人こそ南朝の第二代天皇、後村上帝。
「その方は・・・・東条の者か」
吉野の天の下、多聞丸は言い放った。
「楠木左衛門尉正行でございます」