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国産ジェットの夢を阻んだ「型式証明」の壁 責任は三菱重工だけか 日経ビジネス記事 2/7

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国産ジェットの夢を阻んだ「型式証明」の壁
責任は三菱重工だけか 日経ビジネス記事 2023.2.7
上阪 欣史 他1名 日経ビジネス副編集長

感想
先日「零戦」の技術を継承する者たちの番組の中で「YS-11」の事も描かれていた。ようやくGHQの統治から外れ、航空機の開発が許されて作られた日本初の旅客機。
MRJ(スペースジェット)でその2例目を目指したが、結局とりまとめの三菱重工は事業撤退の道を選んだ。
今回記事で注目されている「型式証明」は航空機の認可を得る基本だが、まず日本の航空局に合格してから海外の認証を取ろうとした。これが間違い(日本にその力がなかった)
それは当然だろう。旅客機の審査なんてやった事がない。
同じく小型旅客機で現在量産している「ホンダジェット」は最初から米国に拠点を置いて、米国の型式証明を得る事を優先。

記事はコチラ

市場もアメリカが最大なのだから、当然そうすべきだった。その辺りは日本国に忖度したのか?今となってはどうでもいいか・・

いずれにしても三菱重工は重い負担を背負い続ける。
また国もかなりの投資がムダになった(それは全て税金!)
この辺りの関連記事を読むと、ホント驚くことばかり。
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今回を予言する様な記事がある(2018年)

機体設計についても当初カーボン主体の軽量化を狙ったが、どんどん後退して重くなって行った・・・

 


まえがき
折れた翼がよみがえることはなかった。三菱重工業は7日、国産ジェット旅客機「三菱スペースジェット(MSJ)」事業から撤退すると発表した。2020年に事実上の開発凍結を表明したが、再起したとしても先行するライバルを前に採算は見込めないと判断。自ら終止符を打つ道を選んだ。事業スタートから約15年。敗因はいくつかあるが、大きくつまずいたのは航空機の安全性について各国の航空当局からお墨付きを得る「型式証明」の取得作業だった。三菱重工グループのエンジニアたちの力不足もあったが、航空産業をつかさどる行政の構造的欠陥も透けてみえる。

本文(転載ご容赦)
「開発中止に至ったのは誠に残念。再開するに至る事業性を見いだせなかった」。7日、都内で開かれた記者会見で三菱重工業の泉沢清次社長は唇をかんだ。
スペースジェットの試験機(写真:共同通信)


債務超過を解消できず
MSJは2008年、「三菱リージョナルジェット(MRJ)」の名称でプロジェクトがスタート。経済産業省が全面支援し、トヨタ自動車も三菱重工傘下の三菱航空機(愛知県豊山町)に出資するなど「国策民営」の色も帯びながら開発が進んだ。

15年11月に初飛行に成功したが、同年12月に初号機を引き渡す予定だったANAホールディングスに対し4度目の納入延期を発表。その後も2度延期し、航空会社からの信用を失った。

18年にはMRJの関連資産約4000億円を減額したほか、三菱重工が三菱航空機に対する増資と債権放棄で2200億円を金融支援。しかし、その後も開発費は膨らみ続け、22年3月期末まで3期連続で負債が資産を上回る債務超過に陥っていた。米国ワシントン州にある飛行試験拠点「モーゼスレイク・フライトテスト・センター」も閉鎖し、4機ある飛行試験機のうち3号機の登録を同年3月で抹消。事業撤退は時間の問題になっていた。

三菱航空機は、ANAホールディングスから25機、日本航空(JAL)から32機、米スカイウエストから200機、ミャンマーのエアマンダレーから10機の計267機のMSJを受注済み。しかし、事業撤退が決まったことで違約金の支払いが発生するとみられ、三菱重工は重い負担を背負うことになりそうだ。泉沢社長はANAなど顧客の航空会社に「申し訳なく思っている」と陳謝した。

「とにもかくにも型式証明に苦しみ続けた。なにぶん初めての経験で暗中模索だった」。三菱重工でMRJ事業を担当した元関係者はこう明かす。

型式証明とは、航空当局の審査を通して開発した航空機が安全に空を飛ぶことを立証する耐空証明手続きを指す。設計から製造工程、品質管理にいたるまで機体が安全かどうか、定められた計算手法や各種試験、検証方法を通して立証する。

安全性は航空当局が定めた基準にのっとって耐空証明するが、三菱航空機のエンジニアらは「国内初のジェット旅客機とあって基準の解釈や、どうすれば基準をクリアしたことになるのかが分からず、戸惑い続けた」(三菱航空機の元事業開発担当者)。機体強度や電気系統、耐火性能などを立証すべく試行錯誤を続けたが、「審査に耐えられない」と設計変更をたびたび余儀なくされた。

16年秋以降はカナダのボンバルディアや米ボーイングのエンジニアらを次々と採用。先輩組の知見を取り入れようとしたが、それでもなお基準に適合していない不備があちこちで見つかり、証明作業の無限地獄に陥った。

審査能力欠いた日本の航空当局
もっとも、足踏みを続けた責任は三菱航空機だけにあるわけではない。航空行政をつかさどる国土交通省航空局にも問題があったと言える。

日本の空を飛ぶには国交省航空局からお墨付きを得なければならないが、米国など販売先の国では、その国からも型式証明を取得する必要がある。各国の型式証明は審査内容が似通っており、相互に認証し合う協定もある。

このため三菱航空機は航空局の審査クリアを最優先に、米連邦航空局(FAA)の審査にも対応できるよう作業を進めていた。

だが、ここに落とし穴があった。航空局にとって国産ジェット旅客機の審査は初めての経験。審査員自身が電気系統や機体強度など基準を満たす条件が何なのかが分からず、審査の方法そのものも十分咀嚼(そしゃく)し切れていなかったのだ。

航空機の安全性を立証する日本の行政機関のスキルが欠落していたことが図らずも露呈した。

日本では1962年に初飛行した国産ターボプロップ旅客機「YS-11」が歴史に名を刻んでいるが、そこから半世紀も航空機の型式証明審査から遠ざかっていた。

米ボーイングの旅客機などで知見豊富なFAAと比べ日本の航空当局は審査が付け焼き刃だったと言える。
航空局も危機感を募らせ一時期、FAAからアドバイザーを呼びノウハウを吸収しようとしたが技能を身につけるのはたやすくなかった。

機体や操縦システム、電気系統などの設計は、教科書通りの一般論は存在する。「ある意味、経験則が生きるのが航空機の世界だが、MRJは燃費性能が高いエンジンや革新的な空力設計、高度な電気システムを採用した。それがさらに審査を難しくさせ、必要あるかないか分からない証明作業を求められた。それに三菱航空機は対応しきれなかった」(同社元関係者)。

国家プロジェクトでありながら、国が最新の航空機の知見を取り入れ安全性を判定する能力を養ってこなかったのは三菱航空機にとって不幸といえる。 
三菱重工の組織も、最後まで一枚岩になりきれなかった。

13年から19年まで社長を務めた宮永俊一氏は事業の主導権を三菱重工本体に戻そうとした(写真:共同通信)

2015年には、技術にこだわりすぎるあまり開発が進まない事態に業を煮やした当時の宮永俊一・三菱重工社長兼最高経営責任者(CEO)が、三菱航空機社長だった川井昭陽氏に引導を渡す。

代打で登場したのは火力発電システム畑が長く航空機は門外漢の森本浩通氏。三菱航空機の本社がある愛知県豊山町の現場主導ではなく、東京の三菱重工に権限を集める人事だった。

しかし、事業は好転せず、3年もたたずに再びトップが交代。

その後、宮永氏は16年11月にMRJ事業をCEO直轄体制に切り替え、18年にはボンバルディア出身のアレクサンダー・ベラミー氏を開発トップに任命した。外国人エンジニアを次々と送り込まれた開発現場は混乱。

組織の二重構造が生まれ、納入遅延という火に油を注いだ。

複合的な要因から国産ジェット機の夢がついえたことは、日本の産業界にとって痛手となる。航空機産業は三菱重工を筆頭とする日本メーカーが米ボーイングの主要サプライヤーに名を連ねるなどしてビジネスを拡大。世界でもプレゼンスを高め、満を持してリージョナルジェット機という完成機市場に打って出たが、一大産業には育たなかった。

「3900時間の飛行試験を実施できたことは評価できる。いい機体だった。チャレンジしがいのあるプロジェクトだったし、やってよかったと思う」。7日の会見で泉沢社長には未練があるようにみえた。国産ジェット機は夢のまま終わるが、型式証明の失敗を通して「国策民営」の意味を問い直さなければ、三菱重工関係者の未練は消えないだろう。

 

 

今日の一曲
今はこんな気分・・・悲しみのジェットプレイン
Leaving on a Jet Plane-PETER PAUL & MARY


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