朝日 新聞小説「白鶴亮翔」(6) 7/17(162) ~ 8/14(188)
作:多和田葉子 挿絵:溝上幾久子
感想
ストーリーの方向性も定まらない中、小説が唐突に終わってしまった(何と!)実質6ケ月半。ここ10年の中では金原ひとみの「クラウドガール」(4ケ月)に次ぐ短さ。
この小説については、読んでいてもなんというか、ただ事象を上っ面だけトレースしている様な感覚があった。
読み進むうちに主人公の輪郭は明らかになって来る。その中で種々語られるエピソード。確かに小説のいち要素は満たしているが、どうにも「つまんない」
何とも表現し難いが「明日の新聞が待ち遠しい」というグイグイ来る感覚がないのだ。まあ、ここ数年は多少そんな傾向ではあったが、これほどひどくはなかった。
途中、重くはあるがかなり重要なテーマと思われた、東プロイセンでの迫害の話がいつのまにか打ち捨てられ、Mさんが貸してくれた本も読むことなく終わった。風呂敷をただ広げただけ。
最終回の後半の文章は、途中どんな波乱万丈があったとしてもテッパンで使い回せる、実に安易なもの。
月半ばでの完も、要は「ギブアップ強制終了」なのだろう。
ざっくりとした話としては、ベルリン暮らしの職業翻訳家ミサが引越しをしてからの数ケ月が描かれている。隣人のMさんをきっかけに太極拳教室に通うようになり、その生徒たちとの交流が描かれた。中にMさんの戦争体験を巡る話や、クライストの小説の翻訳作業が挿入される。
これだけ読むと、それなりの話の様に思えるが「つまんない」
何でかな?今まで長く(10年以上)新聞小説レビュー作業を行って来たが、こんな感覚はなかった。相性が悪いのか・・・・
ドイツ生活を長く続けるうち「異国で活躍する気鋭の作家」というもてはやされ方に、一般的な小説家の感覚を置き忘れて来たのではないか?
これでノーベル文学賞候補と言われてもナットクしづらい。この小説手がけた事が絶対足枷になることだろう・・・・
超あらすじ(5)(6) *(1)~(4)は(5)冒頭に記載
(5) 6/8(124) ~ 7/16(161)
スージーからの本に書かれた、東プロイセンで暴力を受けたドイツ人の話が信じられないミサは、転送を期待してMさんに手紙を書いた。そして図書館に出向きクライストの伝記を探して読む。
稽古のあと、菓子店を営むベッカーさんからビスケットの差し入れ。店へは来て欲しくないそぶりのベッカーさん。
Mさんから返信が届く。ミサが読んだ本は信用出来ないとの事。
戻ったら自分の本を貸すとの言葉で手紙は終わった。
チェン先生から、夫を映画出演させて欲しいとの依頼。
アリョーナの投資相手の若者の話はオリオンさん、クレアも知るところになった。若者の考え方を冷徹に話すオリオンさん。
Mさんへの返信のため、プルーセン人の事を調べようとD書店まで出掛けるミサ。「プルーセン人の謎」という本を手に入れた。
次の練習の時、早めに着いて先生とお茶をしている時にベッカーさんがお菓子を差し入れてくれた。彼女の店が気になる。
「ロカルノの女乞食」の結末は、興奮して火をかけた伯爵のために城が全焼。骨となった伯爵。
ベッカーさんを訪ねに行ったミサ。彼女は以前街中で菓子屋を営んでいたが、妬みを買って田舎に引っ込み、更に悪い噂のため客足が落ちた。近づいたと思った彼女は別れ際冷たくなる。
スージーと電話で話すうちに英語教師のロザリンデを思い出す。
最近顔色が悪い。
(6) 7/17(162) ~ 8/14(188)
バスタブの中に女性の死体が見えるというロザリンデの話に、正体を確かめると乗り気のオリオンさん。巻き込まれるミサ。
ロザリンデの家で見つけたのは、大きな蜘蛛の死骸がランプの反射を受けてバスタブに投影されたもの。長く会えていない母親への心配が見せたものだというのがオリオンさんの解釈。
Mさんの家に居たパートナーのバンドゥーレ。
彼から本をことずかっていると言ったバンドゥーレは、話し合ううちにミサを警戒する。自分の思い込みで隣家との間に出来たヒビ。
アリョーナからの相談を受け、訪れる事にしたミサ。
そして訪れた当日、彼女と男が口論する現場に出くわすミサ。
男が金の無心をするが拒絶するアリョーナ。
火かき棒を手に彼女の背後に近づく男。
ミサが悲鳴を上げる直前、アリョーナの背から翼が出たように見え、それが男を投げ飛ばした。彼はあなたを殺そうとしている!とのミサの言葉に逃げ出す男。その男がロージャだった。
ミサの説明に納得し、祝杯を挙げるアリョーナ。
その後もミサたちは新しい太極拳の技を覚えて行った。そしてベルリンの街は雪で覆われる。
隣りの家のカーテンがオレンジ色に染まるのを見ても、私は隣家のベルを押すことはなかった。
あらすじ 162~188
162
非理性的な心配事ですとの言葉に、耳へ注意が集まる。
バスタブの中に女性の死体、と聞いて声を上げるオリオンさん。
それは幽霊。ロザリンデが風呂に入ろうとして湯を張ったら、そこに死体が見えたという。翌朝には消えている。その翌日も。
湯に浸かるのが習慣なので、それが出来ず不調になった。
オリオンさんは胸をはって、稽古のあと正体を確かめると言い、私の手を掴んで「この人も一緒に来るから」
勝手に決められてしまい、頷くしかない私。
163
オリオンさんの言葉に、消え入る様な礼を言うロザリンデさん。
この日の稽古は二十四式の四番目。膝の前を払いつつ前に進む。
太極拳の手の動きは、胸の前の空間を守り境界線を示す
ベッカーさんは無心に腕の正しい位置を探す。妊娠中のクレアが下腹部を守る様子に、先生の指導が入る。
練習を最初から通しでやると、鶴の第三式が皆全く出来ておらず溜息の先生。動かし方で面白い実験をしましょうと言った。
164
足を踏ん張る様言われるアリョーナ。先生が横から押してもビクともしない。螺旋の魔術だと言った先生はアリョーナの背中に上腕を当て、足の裏から腹、腕と螺旋状に力を誘導して、ぐいと押し上げた。たちまち重心を失ってアリョーナがよろける。
力を効率良く使えば誰でもスーパーウーマンになれるという。
稽古が終わり、オリオンさんとロザリンデ、私は更衣室で作戦を練った。アリョーナとクレアは用事があり行けず。
どこに住んでいるか訊かれ、電車で三駅も行ったところだと恐縮するロザリンデ。
165
三駅なら近い、と親分気取りでオリオンさんが駅に向かう。
ロザリンデの家はレンガ造り。二階に住んでいるという。
オリオンさんがが冗談を言ったが却って緊張する。
彼女の部屋はビクトリア時代風。偽物ばかりだと謙遜する。
お茶を勧められ、そんな場合かと言うオリオンさんに、今言っても現れないと言うロザリンデ。
お茶を煎れ、バスタブに湯を張り、お茶を飲み終わったら電気を消して蝋燭を持って行きましょう・・・
166
ロザリンデが燭台の蝋燭に火を点けた。お芝居が好きなので喜んで参加する、と冗談めかして言った私。
私もお芝居は好きだと言うロザリンデ。母親が高校時代オフィーリアを演じて以来演劇好きだったという。
その母は糖尿病で、彼女がマニラへ仕送りしている。
ロザリンデはお茶を煎れに奥へ行った。
彼女の生活の孤独、疲れを感じ、それで幽霊が見えるのでは?と話すオリオンさん。私はクライストの小説の請け売りで、不当な暴力を受けて死んだ幽霊の思いを話す。
また、人ではなく家に憑いているのかも知れないとも。
167
翻訳家は文学的だから、幽霊の言葉を翻訳したら?、とオリオンさんに言われる。スージーが治療時にでも話したのだろう。
ロザリンデが紅茶のセットをお盆に乗せて戻って来た。場の空気を和らげるため、先日ベッカーさんの店に行った事を話した。
だが話すうちに結局暗い話に落ち着いてしまう。
オリオンさんは幽霊は酸っぱいものかも知れないと言った。それはドイツ語で腹を立てるの意味。
ロザリンデはまた暗い顔で、私の幽霊は動かないという。
168
そして、あれは幽霊ではなく多分死体だと言った。それに似つかわしくなく肌や唇は生き生きとした美女。美女との言葉に引っ掛かる私。そこでオリオンさんが、あなた自身が映っているのでは?と聞く。それを否定するロザリンデ。湯が張られれば分かる。
もし現れたら?と言うオリオンさんに、写真を撮ろうと提案する私。映る幽霊もいるだろう・・・
紅茶のおかげで緊張は解け、ロザリンデにも血色が戻る。
169
オリオンさんが本棚を見ると、ロザリンデが本の説明を始める。両親の本棚にあった英語の本を子供の頃から読んだとの事。
マニラでは母語の本がなかったからそうなった。
話を振られてオリオンさんは、両親が家具の一部として置いていたドイツ文学全集を、高校生の頃読んだと言った。
ミサも聞かれて、実家にあったのは皆日本語の本だと答えた。
それは幸せな事だと言うロザリンデ。
170
彼女はイギリスから奨学金をもらって留学し、最先端の英語教育を得てベルリンで英語を教える職についた。
どうしてドイツなんですか?の問いに、英語圏以外で英語圏ではない者が英語を教える者が、今求められているという。
整然と語る彼女のどこに、幽霊が現れる余地があるのだろう。
ガイストの声を聞きに行きましょうと言うオリオンさん。
ドイツ語「ガイスト」には幽霊以外に「精神」も意味する。
燭台を持ったロザリンデを先頭に私、オリオンさんと続く。
バスルームのドアが開かれ、蝋燭の明かりに照らされると、確かにバスタブの中に等身大の何かが横たわって見える。
171
何かがあるという感じはする。私はロザリンデを押しのける様にしてバスルームに入った。黒い髪が湯の中で揺れて見える。薄暗い照明の中でその部分だけが照らされている。首をねじって天井を見ると、足が恐ろしく長い蜘蛛の死体が巣に絡まっていた。その向こうのランプが蜘蛛に当たり水面に影を落としている。
ロザリンデはそこにあるものを自分の目で確認した。その後声を殺して泣く彼女を、オリオンさんが居間まで連れて行った。
オリオンさんが紅茶を煎れ直しに台所へ行き、私とロザリンデは二人きりになった。
172
泣いたことを謝るロザリンデに、話を逸らすため芝居の話を振ったら、母は芝居が好きだったと言って思い出し再び泣き始める。
オリオンさんがポットを持って戻り、今度帰郷してみてはと繋いだ。だが彼女の言うには、母からはお金がもったいないから来なくていいと言われて傷付いたという。それは古い家族観で、我慢しているだけだと言うオリオンさん。明るくなるロザリンデ。
遅くなりロザリンデの家を辞した私とオリオンさん。
私が蜘蛛を取り除くのを忘れたと言うと、あれは彼女のお母さんだから大丈夫だと笑うオリオンさん。
173
その朝、コーヒーを飲んでから襟巻きを何重にも巻いて外出しようとすると、隣の家の扉が開く音がして驚いた。Mさんではなく熊の様な大男。肩まで伸びた髪は金から銀へ移行の途中。
バンドゥーレと名乗るMさんのパートナーは、彼から預かっているものがあると言った。誘われるままに家の中に入る。
コーヒーを煎れながら、一緒に帰るつもりが彼の叔母さんが怪我で入院したためミュンヘンに行ったと言った。102歳らしい。
お姉さんにも会えるといいですねと言った私に、彼の姉ですか?と訊き返された。建築家で、確かニコラ・ミーネンフィンダー。
174
バンドゥーレは豪快に笑った。それは彼が昔小説に書いた架空の人物。Mさんはそれを気に入って、その話をする様になった。
もしその話がフィクションなら、Mさんの他の話も疑わしい。
子供の頃東プロイセンから移住した話もフィクション?と聞くと、それは本当だと言い、だからその関係の本を頼まれて持って来たと言う。コロンビアでコーヒー園をやっている、シュテファン・アストについては知らない様子。
175
ただ、今煎れているコーヒー豆の話から思い出し、実在すると言った。私はこの人とMさんの事をもっと知りたいと思った。
あなたはプルーセン人の末裔ですか?との問いに、遺伝子の事ではなく、受け継いでいる世界観の事だと言う彼。
靴箱の上にあった人形はプルーセン人の神様ですかと訊くが、彼には思い当たらない。見に行くがそれはなかった。
またプルーセン人には沢山の神がおり、死後はみな楽しい生活を送れることになっていると言った。
176
彼らには死体を三日間腐らせず祈る風習があり、それが謎だという。私が言う冷蔵庫の神様の言葉に、彼が笑った。
プルーセン人の食生活について聞くと家畜を飼い、魚を獲り、麦でパンを焼き蜂蜜を取ってくらしていたと言った。
平均的なヨーロッパ人だったが、キリスト教化されにくかったのが誤解され、ドイツ騎士団などに野蛮だと断じられた。
でも滅ぼされたのではなく、自然に同化して消滅した。誇りにこだわらない生き方が好きだが、欲のなさが怠け者と思われたか。
177
あなたの民族は、他人の土地まで押しかける傾向だったのでは?と振られてどきっとした。彼は落ち着かせる手振りをした。
仕事でチャンチュンに住んでいたというバンドゥーレ。現地で満州国の話を聞かされていた。長春という漢字にチェン先生の出身「チャンチュン」が浮かび上がる。彼は、日本が隣国を権力下に置こうとして世界から孤立したのですね、と言った。
いつか見た夢を思い出す。遅刻して寝間着のまま招待客の多数いる部屋に飛び込んだ。部屋には大きなケーキ。周りの冷たい視線。ケーキを仲良く切り分ける事などしない、とナイフを振りかざしたところで目が醒めた。
178
「大丈夫ですか?」と肩に手を置かれて我に返る。
白昼夢の話はせず、チェン先生の出身地長春の話を説明。その中でバンドゥーレの口ぶりに腹が立ち、彼がプルーセン人の末裔だと言っている事にケチをつけた(人間は簡単に先祖を選べない)
彼の家族の説明。父はグダニスク出身のドイツ人、母はウクライナからドイツに移住したロシア人。行く先々で偏見を受けた。
あなた自身はどうやって偏見を克服しましたか、との私の問いに、自分にも偏見があるのを認める事だと言い、それには遊びに近いやり方があると言った。
179
要するにそれは、自分で勝手に祖先はプルーセン人だと決め付ける「遊び心」 人生の失敗者だったと言う彼。仕事を何度も辞め、入院の経験もある。だがプルーセン人の事を調べるうちに安定。
そこまで話してから、バンドゥーレの態度が豹変して警戒の目を向け始めた。急用を理由に別れたが、その夜は寝付けず。
Mさんとの間にせっかく出来た緩い関係を壊す様な手紙を書いた。緩い糸で張られた今の生活を変えたいという焦り。
一方的な期待の矛先をバンドゥーレに向けて話を聞こうとした。隣家との間に出来たヒビ。
180
太極拳の稽古は季節の流れと共にじわじわと五式まで進んだ。
全部で二十四あるので、クリスマス用のアドベント・カレンダーの窓を開けて行く気分。
第五式は「ピーパ」だと言うチェン先生。その発音に、かつてチャンチュンを長春の事だと気付かなかった事を思い出す。
洋梨の形をした楽器がそれだという。脳裏に琵琶の音が響く。
中国のバラライカですよね、と言うアリョーナに構え方を教えて、好きな弦楽器をイメージして下さいと言う先生。
181
でも音楽を奏でるだけでなく、敵から身を守ると言って少し姿勢を変えた先生は、一瞬で戦う姿に変貌した。
太極拳は音楽、武術であると共に身体の不調も直すという。
私たちは第一から琵琶の式までを復習。戯曲を演じる感覚。
稽古が終わると、ロザリンデが先日の礼を言い、オリオンさんが患者のツテで「ハムレット」を観に行かないかと誘った。
私まで誘ったのは、あの幽霊狩りが連帯を取り持ったか。
背後でベッカーさんが、出産間近のクレアにクッキーを勧めていた。
182
クレアは一口で食べ、私のロザリンデも一枚づつもらったが、オリオンさんは歯科医の手前、人前では食べないと断った。
アリョーナがそのクッキーを二枚抜き取ると、私を呼び寄せて自宅に誘った。応援しているベンチャー企業の取引先が怪しいとの事で、調べたいのだという。彼女の暮らしぶりも覗いてみたい。
もらった彼女の住所を調べると、町の南西の湖畔。以前パウラ、ロベルトと遊びに行った。静かな住宅地だが、店が見当たらなかった。そんな高級住宅街に同情したロベルトを笑うパウラ。
183
そんな事を思い出していると、丁度パウラから電話が掛かって来た。フリーダ・カーロの展覧会への誘い。断ったがしつこく誘うので、太極拳の知り合いの家に行くと告げた。
電話を切ってすぐ、もし自分が行方不明になった時、パウラは警察にどう説明するだろうかと考えた。テレビを点ければいつも殺人現場が出る。毎日この箱の中でどれほどの殺人が行われるか。
この日の夜も疲れてテレビを点けると訊問の場面。
ある人の家に、頼まれて行った事を証明出来るかとの質問。
少し考えてから、アリバイを答える男。
184
質問者の事を審問官だというのを知ったのは、ドストエフスキーの小説から。審問官の質問に動揺する姿を見てテレビを消す。
出演者たちはアリョーナと同じロシア人。偶然とは思えない。
偶然や、と家電たちが自家製の方言で話しかけ、それで冷静に戻れた。有り難いこと。ロザリンデも家電たちと話せればバスタブに死体を見つけるまで思い詰めずにすんだだろう。
アリョーナは午後三時頃にと言ってたが、その「頃」という緩さに却って焦り、結局駅に着いたのは二時半より前。
185
出がけに降っていた雨はやんでおり、湖岸に向かってゆるい坂を下りる。犬を連れた女性とすれ違う。犬の腹のハートマーク。もし事件にでも遭った時、彼女は証人にならないかも知れないが、この犬だけは選び出せる。
アリョーナの家はこの地区の豪邸の一つで、向かい合う白鳥の柵の向こうに、真っ白なヴィラが構えていた。
掛け金を外して門から敷地に足を踏み入れた。
186
ドアが完全に閉まっておらず、手を触れただけで開いた。
その時、奥から男性の声。中を覗くと玄関広間の奥のドアが少し開いている。一歩目で靴音を立ててしまい、次から忍び足。
アリョーナの「何を考えているの?」の怒鳴り声。言い返す男の甘えた様な声。あなたへの投資は札束を捨てる様なものだとの軽蔑にも耐え、千ユーロだけ頼むと言う男。親友への返金。
室内を覗き込むと、白いワンピース姿のアリョーナの前に立つ長髪の青年。眼光が強い。ため息をついた彼女。
「オーケー」と言い、青年に背を向けて棚からクッキー缶を取り出して開けようとしたアリョーナ。
青年が、壁に立てかけてあった火かき棒を手に取りアリョーナの背中に近づいて行った。
187
私が悲鳴を上げる直前にアリョーナが「でもね」と言って振り返った。その時彼女の背から鳥の翼が生え、青年の脇の下から掬い上げる様に広がり、彼をひっくり返した。
ソファーの角で打ち、頭を抱える青年。
「ロージャ、ごめん、痛かった?」
青年が火かき棒を拾い上げたので、黙っていられなかった。
「気をつけて!彼はあなたを殺そうとしている」
ぎょっとした青年は、私を見つけるとこちらに襲いかかって来た。というのは思い違いで、私を突き飛ばして逃げて行った。
座り込んだ私。アリョーナは私を立たせ、ソファーまで連れて行ってくれた。いたって呑気な彼女はお金を貸してあげるつもりだったのにと話す。
「今、何が起こったのか、あなた全然把握していないの?」
188
いつもの喧嘩、大丈夫と話すアリョーナに、今見た話をする私。
息をのむ彼女だが、なぜ助かったかがわからない。
太極拳の技が助けてくれた。白鶴亮翔。鶴が翼を広げるように動かして後ろの敵をはね返した。
笑い出す彼女。だがそれは身体が勝手に動いて身を守ってくれた事への驚きと感謝。マイスター・チェンに感謝してシャンペンで乾杯しようと言うアリョーナ。
私たちはその後も毎週新しい技を習って行き、第十式まで辿り着いた頃にはベルリンの街は、雪に覆われた。
私は長春の歴史を記した分厚い本を図書館で見つけ、毎晩少しづつ読んでいる。隣りの家のカーテンがオレンジ色に染まり、団欒する姿を思い浮かべることはあっても、あれ以来私はもう、隣家のベルを鳴らすことはなかった。
(完)