かなり以前に読んでいたものだが、今回出張で再読。
一話あたり数行で済まそうと思ったが、読み返すと、どうしても長くなってしまった・・・・・
いずれも戦国時代に生きた、珍妙な男たちの話。
ワタシ的には「おお、大砲」が一番印象深かった。家康から下賜されて二百年経つ大砲。そのおかげで一族を養って来たが、肝心の戦で使い物になったのはたった一門。それも過去の口伝を伝えられていなかった者が独力で得た知識によって。
この辺り「峠」のガトリング砲ともつながり、何と言っても司馬遼太郎の興味が垣間見えて面白い。
また「雑賀の舟鉄砲」の東本願寺、「売ろう物語」の後藤又兵衛など、今放送中のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の時代とシンクロしていて面白かった。
1)言い触らし団右衛門
戦国時代から江戸初期にかけての武将、塙直之の話。
愛宕の寺参りに千疋屋の兄理助と共に出掛けたお妙。その道中で身なりの汚い雲水に出会う。袖の隙間から乳を見られるお妙。雲水は本尊に向かって世の乱れを祈願した。
雲水は鉄牛と言ったが、その素性は塙団右衛門。
千疋屋の食客だった林半左衛門が団右衛門の素性を語り始める。
秀吉の部将、加藤左馬助嘉明の軍に紛れ込み、機会があって嘉明の目に留まり、無禄で良いからと家臣になるが、その翌日退転を申し出る。元加藤家牢人という肩書きだけが欲しかった。
ある時、長命寺へ押し込む盗賊の計画を事前に知り、その危機を寺に伝えた上で盗賊を撃退。そこの食客となり、住職は彼に「塙団右衛門」という名を授ける。盗賊撃退のおかげで名は上がったが、彼を買いに来る大名はなく、噂を聞いて、その時には秀吉の家臣として大名となっていた加藤嘉明が再び召抱える事になった。だが身分が低いため騎乗の身にはなれず、鬱々とし、大阪市中でことごとく名前を売って歩いた。
朝鮮討伐の際に大指物を支えた事で名前が知れ渡り、団右衛門は騎乗の身分に出世。だが不満には変わりなかった。
その後の関が原の役で、団右衛門は足軽大将として出陣するが、一騎だけで敵陣に駆け込み一番槍、一番首を挙げてしまう。嘉明は団右衛門を「指物の柄にしかならぬ」とさげすむ。再び加藤家を退散する団右衛門。加藤嘉明は諸侯に通達して団右衛門の仕官を妨害。そんな繰り返しで結局雲水まで身を落としている。
興味を持ったお妙は、兄に頼んで鉄牛を店に呼んだ。無邪気に飯を食う姿。その晩お妙が寝間に行くと、鉄牛は既にいびきを立てていた。
十日ほどして再び訪れた時に鉄牛はお妙を抱く。
理助とお妙に自分の噂を広めて欲しいと頼む鉄牛。
ある日、理助の店に鉄牛を尋ねて来た武士、。徳川頼宣の家臣であり、支度金として百両を置いて行った。
その翌日、店に姿を現した鉄牛に理助がいきさつを話すと、豊臣秀頼のために大坂城へ入城せよとの話があると言う。損得を考えたら当然徳川の話に乗るべきだが、鉄牛は豊臣を選ぶ。小さな仕官より武士としての可能性を優先した。
「言い触らし団右衛門様」とあきれる理助。
戦場における夜襲に抜擢された団右衛門。三百名以上の部下を率いて夜襲を成功させる。加藤嘉明に言われた「大将の器ではない」に反発して、自分からは出ず、後方で床几に座っていた。更にかがり火を焚かせる。夜襲にかがり火など聞いたことがない。自分の功績だと吹聴するのが目的。
夜襲は成功し、その戦場跡に杉板をばら撒く団右衛門。板には「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也」。
ある日、他家に仕えていた時の朋輩、黒川三郎右衛門が訪ね来て、例の夜襲の件について林半右衛門が腹を立てていると言う。半右衛門との会話を思い出した団右衛門。いかに大将になるとも、槍先きの働きを忘れまい、とその時話していたのだ。
夏の陣の当初の戦略としての攻撃に対して、先鋒を志願していた団右衛門は、勝手に少数の兵をまとめて出発。
他の部隊が競う様に先へ走るうちに、団右衛門は敵の軍勢の中にただ一騎で走り込んでしまっていた。
壮絶な戦いの中でとうとう倒れる。死の間際に自らの血で辞世の句を残した。
家康の本陣で団右衛門の首実検が行われようとした時、暑気のせいで腐敗した首の披露は取り止めと決められた。その夜、女が眼をひきつらせ、塙団右衛門を名乗って、首実検をせねば祟りをすると騒いだ。霊になっても言い触らしをやめないことに恐怖した家康方が、夜中ながらも首実検を執り行った。
家康は、この騒ぎが団右衛門になじんだおなごである事を見破っていた。
お妙に咎めはなかったが、お妙自身、途中から団右衛門がやって来た様にも思えていた。
塙直之の略歴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E7%9B%B4%E4%B9%8B
2)岩見重太郎の系図
薄田大蔵。奈良への所用の戻りに三人の男が斬り合っている現場に出くわす。武士の身なりの二名と浪人風の男。若い方の武士は既に倒され、中年の武士と浪人とが戦っている。やや軽率の癖がある大蔵は口を出すが黙殺される。そのうちに二人は相打ちの様な形で倒れる。
路上に包みが落ちており、開けてみると古びた巻物が。素性が判るかも、と開いてみるとそこには「薄田」の文字。自身の姓を見て動転した大蔵は思わずそれを懐にねじ込み、近くの坊官の屋敷に行き、あらましを話して、そこの家来を連れて戻ると、現場には誰もいなかった。
身の潔白を証明するために大小の刀を預け、奉行所に差し出してもらう様に頼み、大坂へ帰った。
自分が経営する道場に帰ってから、妻も遠ざけて、その巻物を広げた。薄田家の家系図だった。
翌日、大蔵は原持明軒という経師(表具屋)を訪ねた。既に隠居の身だったが、武家から頼まれてにせ系図作りもしていた。
大蔵は例の巻物を自分のものと偽って、相談を仕掛けた。ここの先祖となっている「薄田隼人正兼相」がお前はんの祖先か、と聞く明軒に、それを教えてくれと小判一枚を差し出す。
持明軒は、この仁は大坂冬、夏の陣で真田幸村、後藤又兵衛と共に戦った武将だと言う。
数日後、持明軒が道場にやって来た。彼は、大蔵が家系図を偽造しようとしている事を見抜いていた。
薄田隼人正兼相は、秀吉の頃からの譜代の家臣ではなく、秀頼の代で浪人から拾われた者だと推定された。また、この男の前身は岩見重太郎だという。岩見重太郎は塙団右衛門、宮本武蔵と並んで豪傑の代表的人物と言われていた。
持明軒の言うには、この岩見そのものの素性があまり確かではない。そこで持明軒が、大蔵のにせ家系図作りの発注を持ちかけた。当時、家系図により仕官の機会を得る話はごく一般にあった。大蔵は二十両でその取引に乗せられてしまう。
預けた大小を受取りに奉行所に行くが、いましばらく預かっておくというだけで埒があかない。道場に戻った大蔵は師範代の弁次に、あの日の若者を探す様に頼んだ。
弁次は与力に金をやればすぐに解決すると言い、菓子折りと五両が要るとも。大蔵は妻の実家に無心して金を工面し、大小は無事に戻って来た。
妻にさんざん言われた大蔵は、家系図の一件を一部話し、自分が岩見重太郎の子孫だと言った。急に機嫌が良くなる妻のお里。
持明軒の家に行くと、既に大蔵のための家系図が出来ていた。作られた自分の家系に感心する大蔵。
だが、その家系図には兼相が正宗作の短刀を与え、男子が生まれたら薄田の家を興せと言い残したと記されている。それは三千両出してもまず買えないものだった。
だが大坂でそれを持っている者が居るという。刀鍛冶の井上真改入道。
持明軒の家を辞した時にはもう夕暮れであり、行くうちに夜になった。大蔵は二人の男の襲撃を受けた。拾った包みを返せという。
彼らの話では、西国のある譜代大名が薄田隼人正の子孫を探しており、見つかれば高禄で召抱えるとのこと。大蔵はその二人を倒した。
辻斬りを倒したことで、大蔵の人気は日に高まったが、本人の気は晴れない。弁次の調べで辻斬りの生国が判り、大蔵はそこへの旅に出発した。その男の素性は薄田隼人とは無関係だった。
帰宅した大蔵に、持明軒が正装して来いと使いを寄越し、行くと井上真改の屋敷へ連れて行った。
真改は、正宗の短刀を大蔵に差し出した。大蔵に貸すという。
持明軒の推理では、薄田隼人の子孫を探しているのは水野美作守勝慶だという。この者の祖先の水野勝つ成の家来が薄田隼人を討ったのだった。その手柄のために、福山水野家は十万石の大身代となった。
逆縁の恩人として薄田の子孫を探すのは無理からぬ事。
この話は事実となった。福山藩の武士が訪ねて来て、大蔵を召抱えたいと申し出た。しばらく考えさせてくれと言う大蔵。
大蔵が気になっていたのは死んだ二人の武士。奉行所の情報で二人の素性が判り、その出身地へ確認に行き、薄田とは無縁だとの確信がようやく持てたため、水野家への仕官を決めた大蔵。
薄田 兼相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E7%94%B0%E5%85%BC%E7%9B%B8
3)売ろう物語
戦国武将、後藤又兵衛の後半生を、同姓同名の幼なじみの話を横糸に描く。
黒田長政の家臣だった後藤又兵衛基次。関が原の合戦による功績で主君長政と主に筑前福岡に行き、一万六千石の大身となったが、年少の頃から長政を軽蔑するところがあり、ある時いさかいの末、禄を返上して郎党を引き連れて福岡を出てしまった。
その後、又兵衛は隣国の細川忠興に迎えられた。
又兵衛の父は黒田官兵衛と懇意だったが、又兵衛が幼少の頃病死、官兵衛が憐れんで松寿(のちの長政)の遊び相手とするために引き取った。
その幼少の頃、同姓同名だったもう一人の又兵衛。頭の形から基次は「なまず又兵衛」もう一方は「柿又兵衛」と呼ばれた。
その後三十年。秀吉の行った朝鮮出兵の時に数々の武功で名を上げた又兵衛。
又兵衛が細川家に入った事で不穏な動き。長政は忠興に対して、又兵衛を放逐する様要求。それを撥ね付ける忠興。
長政と又兵衛とは、幼少の頃からの確執があり、官兵衛は粗剛の長政に見切りをつけ、又兵衛を子の様に愛した。
官兵衛の死後、長政は遠慮なく又兵衛を嫌い始めたが、世間では長政に器量がないため又兵衛を使い切れないという風評があった。細川が引き取ったのもそんな見栄が作用していた。
そんな時に柿又兵衛が会いに行っても、却って誤解される。柿の希望は拒絶された。
その後数日して又兵衛が細川を出たとの噂。幕府の調停で細川が手放したという。
再度使いを出す柿。使いにより会うとの連絡を返すなまず。
三十年ぶりの再会。なまず又兵衛は柿又兵衛の事を良く覚えていた。手土産になまずの前立を付けた兜を贈る柿。
その後、福島左衛門が三万石で又兵衛を召抱えると家老三名に命じたという。彼らは皆不具であるが、その高禄に不満を持ち、意趣を持って又兵衛にあたる。それを蹴る又兵衛。
その次は播州太守池田輝政が三万五千石でどうかという話。それを受ける気になっていたところ、再び黒田の使者が来て妨害。仕官の話はこれっきりで終わったという。それから数年、又兵衛の名は世間で聞かれなくなった。
そんな頃、柿は又兵衛が乞食にまで身をやつしているとの噂を聞き、二年がかりでようやく見つけ出した。いくらでも合力すると言う柿に対して二千、三千石なら乞食をしていた方が良いと笑う又兵衛。
後藤又兵衛の値が高騰したのは、それから更に二年後。関東と大坂の豊臣が手切れとなった慶長十九年、秀頼の家老が諸国の軍事技術者を探しはじめ、又兵衛にもその使いが来た。
入城するにも、馬も装束もなかった又兵衛。弟子たちの助力で何とか大坂まで来た又兵衛は、柿の店を訪ねる。全てを承知した柿又兵衛。準備を整え、屋敷へ乗り込ませた。
又兵衛は秀頼臣下の五将に選ばれ、城兵十万の馬揃えの采配をふるい、諸侯を感嘆させた。
かねてから又兵衛の人物を買っていた家康。使者を使い、大坂を出てわが方へ付けば播磨一国五十万石をあてがうとの話。
「遅うござったわ」と使者を鄭重に遅らせた又兵衛。その二月後に討死した。
4)雑賀の舟鉄砲
雑賀党。早くから鉄砲に習熟し、一向念仏を信ずる郷土集団。
信長が石山本願寺上人顕如に立ち退きを迫った事を本願寺が拒絶し、戦端が開かれた。
そこへ動員された雑賀衆。
雑賀市兵衛と、その下男の平蔵。門徒の一人として石山本願寺に入城。武功を稼ぎ、自力で分家を立てるという希望を持っていたが、この戦いは全くの無償であった。ある時、見事な戦功をあげたが、門主からは感状が出たのみ。
その様な時、門主の侍僧から呼び出しがあり、上人の代理からひそかに城を抜け出よと言う。三木城の別所長治の元へ支援物資を送る使命。だが宰領するのは市兵衛ではなく僧の義観。戻りの舟はないという。褒賞もない。
義観、市兵衛、百姓門徒十名を連れて物資を積んだ舟は兵庫に着き、六台の荷車に積み替えて陸路を通った。谷に差し掛かって、十数人の武士に遭遇。別所方でなかったら討ち取る手筈で義観が先方まで出向く。敵だとの義観の合図で次々に武士を倒す市兵衛と平蔵。全く動じない義観。
三木方に物資を渡すと、彼らは城に迎え入れられ、歓待を受ける。
城主が直々に礼を言いたいと義観、市兵衛、平蔵が屋敷の中に案内される。接見する別所長治。北の方(奥方)からの言葉も。
別所家は、秀吉から織田方に付く様交渉を受けていた。以前より毛利家との間に親交があり、別所を足がかりに毛利を討とうと織田方は考えていた。
結局、長春は織田と敵対する道を選ぶ。かなわぬ相手に戦う姿が市兵衛には珍しかった。
ある日、義観が市兵衛に「石山に戻るか」と尋ねた。義観はこの城に留まるという。市兵衛も戻らぬと決めた。残る仔細について聞いてみると「菩薩行じゃ」と言った。
市兵衛は長治に呼ばれ、感謝の意を伝えられる。城に留まって鉄砲の技を教える市兵衛。
的との間隔は鉄砲の射程により決まっていた。別所方の鉄砲隊が撃つが、射程が足らず、味方にまで当たる始末。無知な見物衆が市兵衛らにけしかけた。七十間撃ちをすると平蔵に指示し、火薬を増して準備する。銃身の強度との兼ね合いで暴発の危険もあった。目障りな敵側の武将に照準を合わせて平蔵と組んで発射、撃ち取った。北の方様からの「みごとでございました」との侍女の言葉と共に、初めてその姿を見た。
その夜、北の方に褒められた事をなじる様に話す義観。「鶴に会うたか」の謎かけ。
ある夜、市兵衛は義観が城下の者を集めて念仏講を行っている現場を見つける。
秀吉は三木城を兵糧攻めにしようとしていた。飢餓よりも、士気の沈滞が恐ろしい。
別所の家臣が市兵衛に舟鉄砲をやってもらいたいと打診した。試みた者の十人に九人まで死ぬという。
戻って平蔵に相談すると「お断りなされ」と言下に言った。
その夜、市兵衛の与力の一人として付いている軽部が来て、妹に会ってくれという。深夜、城から半丁ほども行ったところでその者が居た。市兵衛が名のると妹は鶴だと言った。鶴は七十間撃ちの時、市兵衛に声をかけた侍女だった。
城主、北の方の様子を聞く市兵衛。彼らは義観を嫌っているという。舟鉄砲を試みて頂けるかとの言葉に拍子抜けがしたが、すぐに鶴を押し倒していた。
舟鉄砲の制作と同時に、これに乗り込む鉄砲衆の人選は必要。義観が、それは自分に任せよという。念仏講の者たちからいくらでも志願者が居た。
市兵衛はあの夜以来、ほとんど毎晩鶴と逢っていた。
鶴はそのことが終わると決まって干魚を市兵衛に与えた。他に食うものがない中では貴重な食料。
舟鉄砲組の中からも餓死者が出たりしたため、市兵衛は再度人選を申し出る。十人で良いという市兵衛に対して、それだけで良いのかと聞く義観。それに自分と平蔵を入れて十二名と言った時、平蔵は「いやでござりまするよ」と拒絶。地獄に落ちると言った義観にご坊はどうなさると聞くと「わしは行かぬ」という。
平蔵は諭す。雑賀の衆は雇われる身だが主君は持たぬ。持たぬ筈の主君のために死んだとなれば、国に戻って笑い者にされる。心が揺れる市兵衛。
舟鉄砲の準備が整い、姿を現した。長さ五間の古い川舟の上にカマボコ型の厚い覆いを被せて閉じる。
四輪の車が付き、二頭の馬で曳く。
翌日の夜明けに発進する事が決まり、その夜は鉄砲組の者だけ麦がふるまわれた。
その夜も鶴に逢いに行った市兵衛。だがそこには鶴ではない別の者が。抜刀して向かうが、相手は義観だと言う。ものを投げつけられて動転し、義観を押し倒したが、義観にあほうと言われて正気になる。
投げつけられたのは干魚だった。
古法として、籠城に備えて干魚やするめを壁に塗り込めておくものがあった。義観はこれを鶴に与え、鶴はそれを市兵衛に与えていた。
義観は市兵衛にほとぼりが冷めるまでこの土蔵に隠れていよと指示。
数日のちに市兵衛は土蔵から出た。あの日から四日の後に城が落ちた。市兵衛は家臣でないという事で不問にされた。
5)おお、大砲
和州高取(奈良)の植村藩にあったブリキトースという威力ある大砲。
家康が豊臣秀頼を攻める時に用いたもので、冬の陣の前にオランダ商人から六門購入し、大坂城の開城に貢献したと言われている。その後無用の長物として大坂城に放置されていたが、三代将軍家光の時に植村家に下賜された。以来二百年、徳川幕府は継続していた。
中書新次郎。幼い頃、隣家の大砲方笠塚仙兵衛に、そのせがれ圭之助と共にその大砲を見せられた記憶があった。
その後新次郎が十九歳の時、父親が隠居し、兄の啓之助が家督を継いだため、弟は兄の家臣になった。
二十歳になり、新次郎は蘭学を学ぶために家を出ることになった。出発前の親戚回りの後、隣家の笠塚家に立ち寄った時、圭之助の姉、妙に逢った。妙は数年前、大和郡山の家士に嫁いでいた。
六年前、新次郎は妙の部屋で、ある体験をした。妙の無言の誘いにより抱き合う二人。妙が新次郎の股間に手を伸ばし、触れた。新次郎に初めて成人のしるしが。新次郎はそのまま部屋から駆け出した。
妙は、新次郎が大坂の緒方塾へ行くことを知っていた。かつての事を覚えていて、新次郎をからかう妙。
緒方塾に入ってから半年ほどした頃、実家の中間の四法次が兄の手紙を持って来た。隣家の笠塚仙兵衛が急死したという。四方次はもうひとつのみやげ話を持っていた。妙が郡山で不縁となって戻っているという。
四方次が来てから数ケ月の後、新次郎は兄からの突然の呼び出しで実家に戻る。
笠塚家の若い当主、圭之助が半日の患いで急死したという。跡継ぎがなければ家禄は返上、家は取り潰しというのがならわし。だが徳川末期のこの時期、いつ内乱が起きるか判らない状態で六門の砲術方の一軒を取り潰すわけには行かなかった。
高取藩ではいつのまにか新次郎が笠塚仙兵衛から大砲の操法を伝授されていると伝えられており、笠塚家の相続を命じられた。驚く新次郎。幼い頃ただ見せられただけという話を兄にしたが、兄は一顧だにせず、三日のうちに妙との婚儀を行うと言った。
それから十日、笹塚姓となった新次郎はまるで生まれた時からここで暮らしている様な錯覚を覚えた。
十四の時といまが、妙とじかに結びついている。
ただ、ブリキトースの操術を一刻も早く知らなくてはならない。
他の大砲方に聞いても教えてくれず、笹塚家に伝わる極意にも重要部は「口伝」とあるばかりで、武家の愚かしさを嘆いた。
火薬の主原料「硝石」伝書では「床下をさぐれ」。実際にやってみると、養蚕や山草の堆積物が硝石となっていた。
調剤については緒方塾に通って硝石、硫黄、炭の配分を知った。
ある日その事を妙に聞くと、それを知っていた。笹塚家では、男子が絶えた時に備えて女子一人に限って伝授されていたという。だが大まかな事しか覚えてはいなかった。
その後の精進で新次郎は大砲の操法をほとんど会得し、あとは足軽に砲手としての訓練を施すだけとなった。
「天誅組」の騒動。徳川家が握っていた政権を京都に取り戻すための工作。長州藩が関わっていた。宮廷工作の末に天皇(孝明帝)の大和への行幸(攘夷親征)が決まった。その露払いのために組織された天誅組。錦の御旗まで用意しての行軍。だがそれが覆され、親征の中止が決まった。単なる暴徒の位置に転落した天誅組。千人ほどに膨れ上がったその勢力は、拠るべき城を手に入れるために高取城の攻撃を決定した。
高取藩では、天誅組が賊軍であるとの京からの指令を受けて迎撃の準備を行っていた。大砲は六門あるものの、砲撃が当らなければわずか百五十人の藩兵はひとたまりもない。
新次郎は全ての準備を整えていた。一番効果の高い場所に照準を合わせており、敵がそこに来るまで、指示があってもそれは他家に任せ、待つ作戦だった。
だが肝心の他家の大砲がいっこうに鳴らない。二門は火薬が湿って使えず、他の二家は火薬の調整が悪くて使い物にならず、また残りの一門は昔から砲尾にヒビが入って、飾り物でしかなかった。
やむなく自家の砲の発射を指示する新次郎。だが威力が強すぎて敵のはるか上を飛びぬけた。だが敵がそれに驚いて大混乱。その後からは的確な照準で次々に命中した。
戦闘は高取側の圧勝で終わった。戦勝の主因は笠塚家のたった一門の大砲。
明治になってから新次郎は屋敷をたたんで大坂へ出、医術を学んだ後に開業した。
天誅組
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%AA%85%E7%B5%84