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NHKスペシャル 開戦 太平洋戦争〜日中米英 知られざる攻防〜 8/15放送

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感想

終戦記念日にふさわしい、いい番組だった。

蒋介石の克明な日記が公開され、日米開戦の裏で行われていたかけひきが明らかになった。

日中抗争の打開を図るため米英に働きかけた蒋介石。

日本は何度かあった講和のチャンスを自ら壊し、最も戦ってはいけない相手「米英」との戦争を始めた。
今までは単純に「アメリカに石油を断たれ、逃げ場をなくして始めた」と理解していたので、新鮮な驚きだった。
日中戦争のこじれが、ひいてはアメリカとの戦いにまでエスカレートしてしまった。またチャーチルもドイツに勝つためアメリカを誘い込んだ。
げに恐ろしきは政治・・・
追記
昭和天皇が回顧している文書を見つけた。
これによれば開戦になった要因は、東條というよりその前任の近衛が始めた様なものだと言っている。
それから満州事変の時、米国がもっと強く出てくれればとも言っており、蒋介石の工作で米国他が方針変更した事の傍証になっているか。

内容
1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃の報を聞く中国首脳 蒋介石。
その日の日記には

本日、我が国の抗日戦略の成果は頂点に達した


日米開戦に至る道程に新たな光

日中抗争は盧溝橋事件が発端。
その6年前1931年に起きた「満州事変」 中国統一半ばの蒋介石は日本との戦いには消極的だったが、徹底抗戦を宣言。


2006年から公開された蒋介石の日記を全て書きとった研究者 鹿錫俊教授(大東文化大)

遺族がコピーを許可しなかったため解読に10年かかった。
蒋介石の戦略-1対1では勝てないが第三国の力を借りれば勝てる
日中戦争勃発(1937)から太平洋戦争開戦(1941)までの四年間の思惑と苦悩が綴られる。

第二次上海事変(蒋介石が巧妙に準備した)
当時の総理 近衛文麿は「暴支膺懲」の声明を発表。

軍部でも「対支一撃論」が大勢を占める。だがこの戦いに苦戦。
当時の中国士官が証言。我々が起こした。

国際的な干渉を起こす狙い。
上海を敢えて戦場にして世界に知らしめる

戦いの国際化で介入を引き出す。その戦略に乗せられた。

その後の日中戦争に大きな影響を与えた。
蒋介石の布石。海外報道機関に対し記事の電信料の大幅割引き。
中国民衆の苦闘を世界に発信。だが日記には苦悩が綴られる。
国際情勢は不利になりつつある。しかし変化を引き起こさなくては。
米大統領ルーズベルト。

米国は伝統的に他国の戦争に介入しない「孤立主義」が基本。
1937年11月に開かれた国際会議でも、日本への非難はあったものの制裁はない。アメリカが制裁の回避を主張。それに他国も同調。
日中戦争の「国際化」は実現せず、上海は陥落した。


事態の収拾を急ぐ近衛文麿。最大の脅威はソ連。

満州国建国で日本は国際連盟から脱退。更なる孤立は避けたい。
ドイツを仲介とする和平交渉を開始。中国も対応可能な案の提示。

実務を行った外務省 石射猪太郎。蒋介石も応じる姿勢。
その直後状況が一変。

日本軍の南京攻略。日本の戦勝気分が広がる。
大本営政府連絡懇談会。軍人より閣僚が強気になり、和平条件を吊り上げた。近衛も追認。日中戦争の早期講和の機会を日本自ら失った。
蒋介石の日記

過酷な条件で却って安心した。これで国内が抗日で一致。
指導者としての足場を固め直した蒋介石。
1938/1月、日本は更に強気に出る。第一次近衛声明。中国国民政府との交渉断絶。政府内にも異論。泥沼の戦いに突入する日本。
日本は各地を占領するが、蒋介石は山岳部の重慶に臨時首都を移して対抗。長期持久戦が新たな戦略。

日中戦争一年あまりで百万人投入した日本軍。

その後も多くの将兵が大陸に駆り出された。
日本の外交戦略が何度も中国を救った。

蒋介石の、アメリカへの宣伝戦略。スティムソン委員会への援助。

日本の侵略に加担しない事を骨子とし、全米各地、会員一万人。

ここでの活動で日本の行為を糾弾(中国として前面に出ない)

米は孤立主義を修正。1939/7/26日米通商航海条約の破棄を通告。
米国民を8割以上がこの政策に賛成。

日本の外交戦略が中国を有利にした。
欧州で第二次世界大戦が勃発(1939)ナチス・ドイツの攻勢により欧州のアジア権益の状況が激変。中国への支援経路断絶(対ビルマ、インドシナ)により蒋介石は持久戦の維持が困難になった。
そうした中で日本は三国同盟(日・独・伊)を締結。これにより中国の価値が高まると考えた。日本は却って自身の孤立を深める。
反対に中国は強大な戦友を得た。三国同盟の仮想敵国はアメリカ。
日本はドイツに対する懸念を持っていた。アジア権益の横取り。
それを防ぐための三国同盟。

英国への働きかけ。日本への抗戦をやめる事を示唆。

イギリスはドイツと熾烈な戦いのさなか(バトル・オブ・ブリテン)
中国が対日戦から手を引くと、日本の目がアジアの英植民地に向く。
働きかけを受けてアメリカは日本への「クズ鉄」輸出禁止。
中国はアメリカから五千万ドルの借款追加と航空機の提供を受けた。

三国同盟一ケ月後の日記の記述--世界史を変えたかも知れない。
米英と同盟が結べなければ、日本との戦争を継続するかどうか考え直さなくてはならない。英米路線、独日路線、ソ連路線の三つ。
状況に応じて手段を変える。

1940/7月、再び総理大臣になった近衛文麿。日中戦争の新方針。
当時No.2だった汪兆銘を懐柔して、別の国民政府を南京に作る。

その一方近衛は蒋介石との和平も模索。
蒋介石側の交渉開始条件は1.汪兆銘の政権を承認しない、2.中国からの撤兵。近衛は承認する心づもりだった。
1940/10/28大本営政府連絡懇談会でそれは黙殺され汪政権を承認。

日中戦争から四年。1941/7月、日本は中国との持久戦を維持するため南部仏印に進駐。これがアメリカの対日石油全面禁輸を招く。
 

南部仏印進駐を巡る新たな事実
アメリカに日中関係を一気に解決する提案。

①ルーズベルトからイギリス、ソ連に中国への同盟を勧めてほしい

②太平洋防衛会議に参加したい。
米英はその求めには応じず。

蒋介石の失意(日記)
英米政府の本音と建て前の卑劣さ。日本へは現状維持のみ希望。

本質は黄色人種に殺し合いをさせる。


近衛はアメリカを通じた日中戦争解決を模索していた。
1941/11月。アメリカが各国に求めた日本との暫定協定案でも、日本が南部仏印から撤退すれば物資提供を復活させるとした(中国からの撤兵は記載されず)


蒋介石は各国の首脳に協力を打電。
この時太平洋戦争へと歯車を回したのはイギリス首相ウインストン・チャーチル。西欧がナチス・ドイツに制圧される中で一国のみ死闘を続けていた。「断じて降伏はしない」

チャーチルはルーズベルトに暫定協定案への懸念を打電。

もし中国が崩壊すれば、我々の危機は大きくなる。
蒋介石の電報も残っている。

戦況悪化を過大に伝えることでイギリスの介入を引き出そうとした。
チャーチルの恐れは、日本が交渉を飲むことでアメリカが開戦に踏み切らないこと(参戦がドイツに勝つ絶対条件)
欧州の戦いでアメリカの助けが必須。最も大事なのは中国が戦い続けること。中国が西欧の同情を得られないと感じたら、日本と講和してしまうのを防げない。
アメリカは日本への妥協的な案を破棄し、改めて条件を出した。

日本政府の、中国からの全面撤退を命じ、日本への理解も削除された(ハル・ノート) これを日本は最後通牒と受け取った。
真珠湾攻撃一ケ月前の御前会議。

東條英機の言葉。中国には百万の大兵を出し、多数の死者、負傷者を出した。四年間の忍苦、数百億の国費。

この結果は結実させなくてはならない。
日中戦争を収拾できなかった日本。

1941/12/8 ついにアメリカとの開戦を選択。
その翌日、蒋介石へ各国から電報。チャーチルとルーズベルト。
イギリスとアメリカは日本に攻撃された。あなたとはこれまでも友人でしたが、今は共通の敵に直面。共に戦う事を誇りに思います。


甚大な犠牲を払いながら日中戦争の国際化を果たした蒋介石。

開戦の、その日の日記。
本日、我が国の抗日戦略の成果は頂点に達した

踏みとどまる機会が何度もありながら、開戦への道を歩んだ日本。

310万人が命を落とした日本の戦争は、敗戦で終わりました。
長期戦で中国人民の支持を失った蒋介石。

この四年後共産党に追われ、失意のうちに大陸を去った。


開戦を巡る指導者たちの選択。

戦いのあとに残されていたのは、おびただしい犠牲。

 


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