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坂の上の雲 五  作:司馬遼太郎

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五巻感想
たび重なる攻略の失敗に、しびれを切らして旅順に向かった児玉。

乃木軍はその直前に二○三高地への本格攻撃を始める。

行く途中で陥落の報を受けて祝杯を上げた児玉だったが、後方からの兵力補充なく奪還され激怒する。
ここからの児玉は痛快。作戦本部が後方すぎる事をどやしつけ、28サンチ榴弾砲も一日で移動させる采配をふるう。ただ乃木の立場に配慮して、児玉の位置付けは「指揮権の一時借用」
 

児玉がここまでの大活躍をしたかどうかはやや微妙なところであり、史実として多少割り引くにしても、二○三高地を陥とす場面は、この小説の二つの山の一つ(もう一つはバルチック艦隊との戦い)。

児玉は日露戦争終結の翌年に急逝。心労が祟ったか。
二○三高地が陥ちたのは、日本軍の攻撃というより、ステッセル将軍の弱気によるもの。
後に語られるクロパトキンについても、神経症的な心の弱さで自ら敗けを呼び込んでいる。それらに助けられた日本軍。

連合艦隊は、ようやく旅順を離れ、艦隊整備に入ることが出来た。
そして、悲運のバルチック艦隊の航海が描かれる。
その後陸軍では、黒溝台の戦いで危機的状況を迎えることになる。

続きは六巻で・・・







坂の上の雲 五 あらすじ
 

二○三高地
果して、乃木軍司令部からの報告は、ことごとく敗報。
敗けたとは書かず--鋭意攻撃中ナルモ敵頑強ナリ--といった類いの粉飾的文章。占領したというような字句はなく「敗けておりますな」と児玉のスタッフは解読した。
児玉は自分の重要なスタッフの一人、松川 敏胤(まつかわ としたね)に旅順行きを宣言した。反対する松川。クロパトキンの大軍がいる北方戦線を捨て、南方戦線に行くなど許されない。

前回にも同じ事をやって判断に乱れを生じた。
今回は第三軍を指揮しに行くという。ぼう然とする松川。

それは命令系統の破壊になる。秩序の面からも反対する松川だが、旅順を今のままにしておけば日本は敗けると考える児玉。
他の人をやっては?の言葉にも「わしでなきゃ、ならんのじゃ」
長州人同士で、長い親交の歴史があり、互いを知り抜いているからこその案。
総司令官(大山巌)の命令書の持参を勧める松川。
大山の部屋を訪ねる児玉。クロバト(クロパトキンの事)の動向を聞き、ここ十日ほどは大丈夫との返事を聞いて、それで旅順へ行くのですな、と言った大山。児玉の企図を直感で知っていた。

命令書を書いた大山。

児玉は明治37(1904)年11月29日夜、煙台から汽車に乗った。
実はこれより二日前、乃木希典は今までの作戦思想を変え、攻撃の力点を二○三高地にかけようと決心した。

これは伊地知の発案ではなく、彼は反対に代えて沈黙。

乃木は開戦以来初めて、自分の参謀長の意向を無視した。
だがこの地は既に要塞化されている。これに対し乃木は第一師団のほか、内地から到着した大迫尚利中将率いる第七師団(旭川)を充てた。
砲撃側との連携も議論され、攻城法はようやく合理化して来た。

29日午前から攻城砲が猛射を始め、その後歩兵、工兵が敵に接近する。ようやく戦術が功を奏するようになった。

それから30日に至る攻防戦の惨況は言語に絶する。千人が十人になるのに十五分。それでもなお二○三高地西南の一角、累々たる死骸の中で生者がいた。
「西南ノ一角、占領シアリ」の報が乃木軍司令部に届いたが、それは単にわずかな人間の群れが生存しているだけの状態。

それに対し増援を充てた大迫中将。

二○三高地でのロシア側指揮官はトレチャコフ大佐。将兵たちから心酔されているコンドラチェンコ少将の部下で勇猛果敢。

ノギの26日好きを看過したのも彼。
ステッセルは、二○三高地こそ攻防のかなめであると見て、ここへの兵員補充を惜しまなかった。

兵員の乏しい中、衛生兵や鉄道兵にも銃を持たせた。

日本軍は様々な方面から二○三高地を攻略した。その中腹で敵の砲火のため動けない村上隊。それを見ていた旅団長の友安少将が、前進せよとの命令を出した。それを伝令で伝えたのが乃木保典少尉。

弾雨の中を駆け、奇跡的に村上隊に着いた保典は命令を伝えた。

前進は死を意味する。直ちに前進しますという復命を受けて走ったこの少尉は帰路、頭を射抜かれて戦死した。
村上隊の突撃が行われた。村上隊が動いたのを知って、西南の堡塁に潜んでいた香月隊も運動を開始した。香月・村上両隊の五百名がロシア軍の歩兵陣地に殺到した。ロシア兵は千名。白兵戦では日本の方が強い。大きな損害を出しながらも村上隊の約五十名が山頂に達し、ついに二○三高地を占領した。ときに三十日午後十時。

この報を聞いたコンドラチェンコ少将は「三時間後に奪い返す」と言って行動を開始した。それは重要でない堡塁を放棄して、増援を二○三高地に回すというもの。三つの堡塁が放棄された。

そして手榴弾と爆弾の支給をステッセルから受けた。

奪還のための最後の一項は「勲章」功をたてた者への即時授与。

ステッセルは渋ったが、その権限をコンドラチェンコに与えた。
午前零時には大逆襲の準備が整った。

援軍に感謝するトレチャコフ大佐。
それに対して村上・香月部隊に援軍はなく孤立していた。

この深夜、日露両軍が二○三高地の山頂付近で死闘を演じた。
日本の旅団は二個中隊を増加したが、トレチャコフの猛襲を受けてほとんどが斃れ、山頂は元の40人に戻った。

彼らは勝利者だったが、弾はなく飲み水もなく援軍のあてもなかった。
陽がのぼればロシア軍は事実に気付く。

彼らをこの惨況に置いた責任は司令部が取るべきだった。

彼らは山をくだり、山頂の東北角は再びロシア軍のものになった。
山頂の西南角は、香月隊の少数が抵抗を続けたが、自滅は時間の問題。

総参謀長児玉源太郎を乗せた汽車は南下を続ける。

随行する田中国重少佐。
児玉、乃木両家とも維新前後の動乱に揉まれ、彼らの私的事情と新国家の誕生が一つのものになっていた。

その国の存亡がかかっている時、一人は総参謀長、一人は旅順攻略の第三軍司令官であることに感慨を覚える田中。
金州駅で止まり、総司令部から二○三高地が陥ちたとの電話が伝言された。乃木軍指令部からの経由。
表情を輝かせる児玉は、祝杯と洋食の手配を命じ、随行の下士官、兵士にもシャンパンをふるまった。
陥ちたとなれば急ぐ必要はなく、祝電を打つべく大連で降り、ホテルのベッドで30分ほど仮眠した児玉。だが目覚めた時、田中が電話を受けた。二○三高地が今未明、再び敵に奪還されたという。激怒する児玉。
乃木軍司令部は、山頂の堡塁二つを占拠したという事だけを聞き、それに対する兵員、弾薬、食糧の補給もせず総司令部に報告したのであろう。参謀自ら現地に行っていない証拠。
予定の如く自分が行くしかない。児玉は大山に、自分が指揮出来る歩兵一個連隊の南下を電報で要請し、大連から旅順に向かった。

「長嶺子」の駅で出迎えに来た参謀副長大庭二郎中佐が、児玉の癇癪の犠牲になった。
状況を聞かれても数時間前の事しか分からない。「馬鹿ァ!」と怒鳴られる。通信所への連絡を要求するが、それは4キロも離れている。そんな事だから負けてばかりと、また癇癪を起こし汽車を出させる児玉。
車中、更に児玉を憤慨させる光景が広がる。

無数の白い墓標が線路の両側を埋め尽くしている。軍事輸送の本道に墓標を林立させれば、補充される兵員はそれを見て士気を失う。

戦線から遠い「柳樹房(りゅうじゅぼう)」の駅に着き司令部に行くが、行き違いで乃木はおらず、伊地知に会う児玉。
乃木軍司令部の作戦について、痛烈に批判する児玉に言い返す伊地知。砲弾不足では戦えない。こいつは子供だ、と悟った児玉。
その後何とか乃木と再会し、二人だけで話したいと持ちかける児玉。
二人で馬を使って高崎山へ行った。二○三高地から北へ3キロにある山。この地に乃木軍の重砲陣地があった。

あの28サンチ榴弾砲もある。
ここから二○三高地へ撃ち込むのに遠すぎないかと聞くが、伊地知はよくやっていると、倫理的な事しか言わない乃木。

そして「伊地知は専門家じゃから」
この重砲位置は間違っている。砲兵の専門家より自分を信じた児玉。
この晩はここで寝ようと提案する児玉。あの軍司令部以外で寝たことがない乃木は驚いた。
その晩、第三軍司令官の指揮権を一時借用させてくれと頼んだ児玉。代理だとの書状が欲しい。まるで詐欺のような話だが、それに乗ってくれた乃木。たちどころにその書状を認めた。

その晩泊らず軍司令部に戻り、作戦会議を開いた児玉。
児玉に対して状況報告が行われたが、もはや命令あるのみ。
大山閣下の指示により乃木軍司令官の相談に与ることになった、と言った後「攻撃計画の修正を要求する」それは

①28サンチ榴弾砲を陣地変換して

②連続砲撃を加える、というもの。
要塞を粉砕するに足る砲を二○三高地に近づけて巨弾を送る。

子供でも分かる単純な理屈。なぜ今までこれが出来なかったのか。
質問を募ると、重砲陣地の速やかな移動など不可能、という反論が砲兵の中佐から出た。かつて伊地知が砲床工事のベトンが乾くのに一、二ケ月かかると言っていたのが、9日で据付け完了したのを知っていた児玉。
「命令。24時間以内に重砲の陣地転換を完了せよ」
結果から言えば、命令通り24時間以内に重砲は二○三高地の正面に移された。
②について反論が出た。連続砲撃では味方を撃つおそれがある。

陛下の赤子を、陛下の砲で射つことは出来ないと言った。
抑えていた感情を爆発させる児玉。
陛下の赤子を、無能な作戦でいたずらに死なせて来たのはたれか。兵を無駄に死なせぬための作戦転換だ。今も二○三高地の一角に百名足らずの兵が貼り付いている。その姿を見た者があるか。
驚いたことに幕僚の誰もがそれを見たことがない。
参謀の大庭に声をかけた児玉は、数名の参謀を連れて前線への確認に行かせた。彼らを気遣い声をかける乃木に、不満の児玉。

翌日は前線に出た児玉。この日は12月3日。日露双方の砲は沈黙。それは死体収容のための休戦。慣例化していた。

砲塁修理が出来るため、ロシア側もこれを喜んだ。
日本としても深く掘った塹壕が死体で埋まりその用をなさないから、その排除のためにも必要な期間。彼我の休戦効果は比べるまでもない。
「何という馬鹿なことをする」と思っていた児玉だが、今回ばかりは重砲移動のためこの休戦を喜んだ。
第七師団長の大迫が、もう一度攻撃をさせて欲しいと懇願した。大本営の虎の子として出したこの師団の生き残りは、もはや千人そこそこ。それを容れた児玉。でなければ第七師団は、ただ旅順に虐殺されに来
ただけに終わる。
準備させておいた戦場の地図の記載に間違いを見つけ、それを書き込んだ参謀が現地を見ていない事を知った児玉は、その少佐参謀の参謀懸章を引きちぎった。

12月5日になった。攻撃の再開。日本軍の重砲は射程が短くなったため、咆哮とほとんど同時の爆発音を聞いて兵の士気は高まった。


前線に出た児玉。二○三高地近くの丘に登った。ぞろぞろと付いて来る参謀懸章の群れ。恐らく現場に来たのは初めてだろう。
双眼鏡で二○三高地の山頂を見た児玉。そこを死守している兵の姿を見て感動した。参謀なら心を動かして処置のプランが湧くはず。
随行の田中を叱りとばすが、真に叱りたいのは参謀連中。
一瞬のちに砲の準備を聞いた児玉は、その28サンチ榴弾砲を以て二○三高地の山越えに旅順港内の軍艦を撃てと命令した。沈黙する担当少将。それを忘れたように双眼鏡に見入る児玉。

児玉の重砲陣地大転換は、みごとに功を奏した。28サンチの砲弾一発218キロが2300発撃ち込まれた。その援護により決死隊が登攀。
この日の午前9時から攻撃開始して1時間20分で、二○三高地の西南角が日本軍によって占領された。
東北角も午後には占領を確実にした。
児玉は、占領が確定した午後二時、自ら有線電話に取り付き、山頂の将校に向かって叫んだ。
「旅順港は見下ろせるか」この点、長く疑問とされて来た。
「見えます。各艦一望のうちに収めることが出来ます」
あとは山越えに軍艦を撃てばいい。

28サンチ榴弾砲の来歴。
海防の観点から、威力ある要塞砲を海岸に設置したい日本は、イタリアから二基そのモデルとなる砲を買い入れた。国産化を目指したが、鋳鉄だけはイタリアからグレゴリニー鋳鉄を輸入した。

その後これに代わって釜石銑鉄を用いた砲身の製造に成功し、明治26年以降は全て国産製になった。
だが基本は海岸要塞に据えておくもの。

こういった砲が野外決戦に使用された例は、世界史にない。

児玉がこの命令を発した時、砲兵司令官の豊島陽蔵は「不可であります」と言った。28サンチ榴弾砲では軍艦を貫くことは出来ず、報復により観測所や砲弾基地までやられるという。
(この男、少し馬鹿か)としみじみ豊島を見る児玉。豊島の言うには、報復に備えるための防備を施すのに三日必要だという。
そういうものは戦さが終わってからやれ、と言って「命令」とおっかぶせた児玉。
その十分後、28サンチ榴弾砲が咆哮を上げた。

その命中精度は百発百中。主要な戦艦を沈没もしくは再起不能にし、造船所、市街地も破壊した。

この翌日、乃木は初めて二○三高地に登り、将士たちの労をねぎらった。その巡視に、腹痛を理由に欠席した児玉。

乃木の面目を優先した。
児玉は北方の敵情が気になっていた。

彼の本務は旅順ではなく北方の戦場にあった。
乃木が旅順をおとしたという事を内外に喧伝するため、この地への訪問も陣中見舞いとした児玉は、軍司令部参謀にも自分の関与を公表しないよう求めた。
だが戦後乃木が、海軍の東郷と並んで救国の英雄とされた姿を見ることはなかった。この戦いの翌年に死んだ児玉。

11日、乃木は陣地巡視の折りに詩を作った。
爾霊山は𡸴なれども 豈攀じ難からんや 

男子功名 克艱を期す
鉄血山を覆うて 山形改まる 

万人斉しく仰ぐ 爾霊山
爾ノ霊(なんじのれい)というのは、この山で戦死した全ての日本人に向かって呼ぶと共に、先に戦死した長男勝典に比べ、性格の明るかった保典への思いがこもっている。
参謀長一戸兵衛の日記にある「--茶菓ヲ出ス」
休戦の折りに、ロシア将官と敬礼を交わした時にもらった菓子の事を聞いた乃木は、この話を喜び、記念に欲しいと言ったらしい。


海濤
東郷の連合艦隊は乃木軍の旅順要塞攻略中、封鎖作戦を継続し艦、兵の疲労がはなはだしい。
その後連絡将校の情報により児玉の南下、主攻撃を二○三高地に転換、そしてその後の陥落とロシア艦隊の撃沈を知った。

安堵する東郷。
だが戦艦セヴァストーポリだけがいない。一艦だけ致命傷をまぬかれた。この艦長は勇者と言われたフォン・エッセン大佐。旅順口の戦いで苦しめられた巡洋艦「ノーウィック」の艦長だった男。
この艦は戦闘力を失っていたが、エッセンは最後の死に場所として港外に出し、投錨した。
老朽艦だが戦艦。この艦の処置について日本側で議論された。
水雷艇での夜襲が行われたが、確実に仕留めたとの確証がない。
陸軍輸送の観点からは、一隻たりとも残してはいけないという圧迫感。遠目が利く飯田大尉が確認に出向く事で話が決まったが、東郷が「自分で見に行く」と言い出した。
この十ケ月間の心労が、自らの目での確認を要求した。

だが万一の事もあり護衛艦が二隻従いた。

同様の理由で島村、真之ら幕僚の同行も禁止された。
旅順要塞から見えず、目的の場所まで見通せる場所で投錨し、東郷はツァイスの双眼鏡で確認した。やがて「沈んでおります」と言った。
十ケ月に及んだ封鎖作戦はこれで終了した。
そして翌日、真之らを従えて第三軍司令部を訪れ、乃木希典に慰労と感謝を述べた東郷。
また海軍所有の28サンチ榴弾砲を含む大砲軍を移設しその運用に貢献している、指揮官の黒井悌次郎中佐を慰問した東郷。

三笠以下東郷の艦隊は旅順を離れ、第一艦隊は呉、第二艦隊は佐世保に入った。どの艦も痛みがひどく、修理には二ケ月半かかると技術官が予定を立てたが、職工たちは気負い立ち二ケ月足らずで敷島の修理を終えた。

真之は帰京し、兄好古の留守宅を訪ねて母貞と嫂の多美子に挨拶した。そして青山の新居に帰った真之。

昨年七月に娶った妻のすえ子が出迎える。
船がドック入りの時は船乗りも休養。毎日司令部に顔は出すが早めの帰宅。家では天井を眺め、作戦を練る毎日。

バルチック艦隊はどこをどう来るか、が目下の懸案。
艦隊をワンセットしか持っていない連合艦隊は、太平洋、日本海いずれかで待つしかない。
戦いが始まってからは全て真之の仕事。「七段構えの戦法」を考えていた。日本水軍の古戦法からの発想。
広い海域を七段に区分し、第一段は足の速い小艦艇で主戦力を襲撃。翌日第二段は、全力をあげて敵艦隊に正攻撃。ここがヤマ場。

第三、第五は再び駆逐・水雷の小艦艇による魚雷戦(奇襲)。 
翌日に第四、第六段。わが艦隊の大部分を以て敵艦隊の残存勢力を追い詰める。そして第七段で、敷設した機雷沈設地地域に追い込み爆沈させるもの。黄海海戦での苦戦を思い出す真之。

偶然主砲弾が旗艦に当たったからこそ勝てた。

ロジェストウェンスキー航海と言われる、バルチック艦隊の苦難の航海。大小40隻に及ぶ一万八千海里の航海。

思うだけでも気が遠くなる事業。
11月3日、モロッコのタンジールで石炭補給。
そして11月12日、フランス領ダカール港に入る。

とにかく石炭積み込みを急がせるロジェストウェンスキー。
だがその許可を西アフリカ総督に申し入れると、積み込みを許可しないとの返答。パリからの、訓令の正式連絡が来るまでは作業する、という事での積み込み。
ロシアとフランスとは同盟関係だったが、ロシア陸軍の連敗で英国に対する遠慮があるフランス。外交関係の海を南下するバルチック艦隊。
リバウ港を出る時に、なぜ外交的な手を打たなかったのか、とは幕僚たちの不満。
元々外交上の責任は外務大臣、海軍大臣らが行うべきだが、今までの専制政治がそれを不要にして来た。
そのロシアの武威が過去のものになりつつあった。
艦隊は内部でのトラブルにも悩まされた。各艦の不調による停止や、全体速度の低下。
また、次の寄港地ガボンの場所が分からず、小艦を走らせて場所を確認した。
このガボンもフランス領。ドイツ汽船からの石炭積み込み作業中に、それを咎める使いが来る。また本国から他の場所に移動せよとの電報。今までの鈍感な外交が世界から見放され、この艦隊は「浮浪艦隊」と
なっていた。
ガボンを出た翌日12月2日、各艦で赤道祭が催された。

旗艦スワロフでも仮装した者たちが練り歩いた。
ドイツ汽船との交信により、ポルトガル領の「大魚湾」で給油を行う事とし、まず汽船が入港した。そこを警備していた老艦「リムポポ」がドイツ汽船に迫った。弱小国ポルトガルも英国には弱い。

抵抗した汽船だが空砲を受けて港外に逃げた。その後バルチック艦隊と共に入る汽船。リムボボは艦隊にも警告を重ねたが、無視して石炭補給を行った艦隊。各国の関所を破って行く覚悟。
艦隊はドイツ領の港を目指し、ようやくアングルベクウェンに入った。この地の駐屯軍司令官は、目をつぶるという事で黙認した。
ここで手に入れた新聞で、二○三高地陥落を知ったロジェストウェンスキー。興味は旅順艦隊の動向。彼の艦隊が極東へ行く計画は、旅順艦隊の健在の上に成立する。
ただ、今は皇帝の命令通り進むしかない。

艦隊は、アフリカ大陸を左舷に見つつ、南下を続ける。

この最後の南にあるのが喜望峰。
暴風の名所であり「暴風峰」がふさわしい。
天候を心配したが、無事に喜望峰を回ることが出来た。
次の目標は「マダガスカル島」。暴風が数日続いたが、追い風だったためあと一週間ほどでその島に着ける。
水兵たちはともかく、非戦闘員はこの先に待っている恐怖に耐えられなかった。雇っていたフランス人のコックや給仕が、かつてヴィゴ港で全員逃亡した事があった。
艦隊の中での行動を手こずらせる困った船-工作艦カムチャツカ乗員のほとんどは徴集された工員。漁船を乱射した発端もこの艦だった。
マダガスカル島への航海中、どんどん遅れ出すカムチャツカ。石炭が粗雑で速度が出ないというのが理由。そして粗悪炭150トンを捨てたいと言い出した。
ロジェストウェンスキーはそれを謀反とみなして、扇動者を海に投ぜよと命令した。
カムチャツカの失態は続く。なおも黒煙を吐いて続く同艦だったが、同じ要求を今度は夜間サーチライト信号で送った。
それを受けた旗艦スワロフの信号兵が読み間違えた。
「ナンジ(旗艦)ハ、水雷艇ヲ見タルヤ」石炭を水雷艇と読み違えたのがきっかけか。
報告を受けた当直将校が全士官を叩き起こし、

「ほどなく日本の水雷艇の襲撃を受ける」
全艦に警報が行き渡り、海面照射、砲撃準備がされた。
真相が分かると信号兵は殴られ、カムチャツカの艦長は懲罰された。


水師営
二○三高地の陥落後も要塞の攻防は続いたが、日本軍が優勢となり、残敵掃蕩期に入った。
12月12日付の東京朝日新聞では「二○三高地は、セヴァストーポリ攻防戦におけるマラコフ砲台にあたるものであり、要塞は一日にして陥落した」とクリミア戦争のヤマ場をなす戦いになぞらえた。
クリミア戦争は千八百年代に起きたロシアとトルコ(英、仏他が応援)との戦いであり、マラコフ高地に築かれた要塞が陥落してロシアが敗北したが、この要塞が349日に亘って籠城に堪えたことがロシア人の名誉。ステッセルの籠城日数は、それよりはるかに短い155日でしかなかった。
ロシア軍の側から二○三高地陥落後の戦いが語られる。
セヴァストーポリの半分にも満たない期間しか防御し得なかった事が、ステッセルの不幸を呼んだ。
従軍した司令官のほとんどは栄誉の地位を保ったが、ステッセルのみは軍法会議にかけられ、禁固刑に処された。
降伏することで日本に与える利益が大きすぎた。

祖国に対する裏切りとも言える大損失。
下級将校らはステッセルについて「あの将軍では、戦争はうまく行かない」と感じていた。

彼の関心が祖国よりも自己の栄達にあった事を見抜いていた。

ただ、そんなステッセルが行った良質な処置が、コンドラチェンコ少将を片腕に選んだこと。
歩兵と砲兵に精通した作戦家であり、元々ステッセルの幕僚ではなかったが常に相談相手にし、砲台建設について大きな権限を与えていた。旅順要塞を最終的に完成させたのは彼。
ステッセルのナンバー2と言われる者が陸軍少将のフォーク。

彼がコンドラチェンコの積極性を嫌った。
そのコンドラチェンコといえども二○三高地の重要性に気付いていなかった。それを教えたのは日本軍。
中途半端な攻撃により、その重要性に気付いた彼は、山頂に次々と堡塁を築き、各設備を充実させた。乃木軍にあれだけの犠牲を強いたのはコンドラチェンコだと言っていい。
二○三高地を陥とされても、コンドラチェンコの闘志は衰えていなかった。防戦・反撃に対するプランを聞かされて驚くフォーク。

ステッセルも降伏への傾斜を始めていた。
その消極に腹を立て、同僚の少将に、ステッセルとフォークを逮捕してペテルブルグに送るとまで言ったという。
このコンドラチェンコが12月15日に戦死した。
彼の死は日本軍にとっても重要であり、この時期から目立って旅順の坊戦力が落ちていった。
ステッセルかフォークが彼を死に追いやったという憶測も流れた。

事実コンドラチェンコが生きていれば、降伏はスムーズには行かなかっただろう。
コンドラチェンコは、28サンチ榴弾砲の直撃を受けて死んだ。

その報を受けてステッセルは、フォーク少佐をその後任とした。

要塞が一塁ごとに陥ちていく。その中でも猛威をふるった二竜山堡塁が、迫撃戦により陥落。その後ロシア軍の士気は目立って落ちた。
翌朝、ステッセルは作戦会議を開いた。

防戦のキーマンとなる指揮官、司令官たち。自分の参謀長であるレイス大佐に自分の意思を代弁させるステッセル。

降伏とは言わないが「よく戦った」というイメージ作り。
だが抗戦派のスミルノフ中将が反論。

この程度の状況は籠城戦では普通の状態だと言った。
レイズは孤立し、ステッセルは彼を捨てた。
「私は戦う」とスミルノフを支持したステッセル。
戦闘は続けられた。ステッセルは、その後は前線にも出ず旅順市街に留まった。だがその市街にも日本軍の砲弾が落ちる。

ステッセル夫人のウェラはその砲声に神経を病ませ、その悲鳴がステッセルにはこたえた。
31日の猛攻で、ロシア軍の松樹山堡塁は陥ちた。

望台と呼ばれる高地はロシアの第二防御線の一つであり、彼らのカナメでもある。そこも1月1日、日本軍の組織的攻撃で陥落した。
これより一時間前にステッセルは降伏を決意していたが、前線の将官たちには諮らなかった。

ほとんどの将官は自分の堡塁を死守する覚悟。
ステッセルは降伏を伝える軍使に、マルチェンコという若い見習い士官を充てた。彼であれば見咎められる恐れがない。
マルチェンコが届けた文書は軍司令部で開封された。司令部付の有賀長雄により読まれ、降伏申し入れだと確定された。内容は開城の条件等協議に関する委員指名、会場・期日選定の打診。
委員は有賀の進言により伊地知幸介、場所は水師営、期日は明日(1月2日)正午と決められた。相手の委員はレイス。
やがて休戦の運びとなったが、開城談判が始まる前に戦場では戦争終了の喜びで踊り、飲む風景が見られた。中にはロシア、日本両兵が酒を酌み交わす。
本来人は、武器を取って殺し合うのに向いていない事の証拠。
伊地知とレイスの間で開城談判が結了したのはその日の午後4時30分。それを以て乃木軍は戦闘行為の停止を命令し、更に同7時、占領と開城に関する命令を発した。
 

この報は全世界を駆け巡ったが、ロジェストウェンスキーとその大艦隊は洋上であり、その報に接していない。
石炭補給のドイツ汽船「ルーシ」は今や、艦隊の次の石炭積み込み地を探す役目を担わされていた。情報を集めながら艦隊に知らせる折りに、新聞を買い込んで情報を流した。
1月1日に戻ったルーシの情報で、旅順艦隊の消滅を正式に知ったロジェストウェンスキー。
その後ルーシが1月6日に再度戻った時、旅順要塞開城の凶報がもたらされた。
士官の中には、本国へ戻るべきであると叫んだ者もいた。
旅順要塞と旅順艦隊を失うことで、この大作戦が根底から崩れた。
「本国の指示を待たなくてはならない」と呟くロジェストウェンスキー。
艦隊はマダガスカル島東岸と北上し「ノシベ」を目指した。なぜ無名の小さな漁村に行くのか。それは拙劣なロシア外交の結果。
フランスは、本来欧州における安全のために同盟を必要としたが、ロシアが勝手に極東での侵略道楽を始めた。それで安全保障が弱体したフランスは、英国に媚びざるを得ない。
その外交力学の結果「ノシベなら貸す」という事になった。
ノシベに向かう途中、この艦隊はクリスマス(ロシア暦)を迎えた。

祈禱式が行われ、祝砲が発射された。
航海の途中、戦艦ボロジノが怪艦4隻の追尾を知らせて来た。それはやがて闇に消えたというが、日本の
巡洋艦隊が襲撃しようとしている、という憶測が全艦隊を支配した。
この夜、全艦隊は警戒態勢に入った。
日本艦隊は日本近海を守るためのみに作られている。ただでさえ乏しい艦隊を割いてマダガスカルまで派遣する筈がない。

旅順において、ステッセルと乃木希典の会見が明治38(1905)年1月5日に行われた。談判は終了しており、両将の会見が法的に必要ではなかったが、ステッセルがそれを希望し、乃木が受けた。
会見場所は水師営(村の名)。

会場は戦闘中野戦病院に使われていた劉という農家。
午前11時の会見時刻5分前にステッセルが到着し、乃木は11時30分に到着。
立ったまま握手し、互いを讃えた。

次いで明治帝の電報を披露する乃木。武士の名誉を保たしむべきとの言葉で、ステッセルと随員に帯刀が許された。
その後雑談に入り、会見としては二時間続いた。

ステッセルは乃木に感動し、生涯彼を尊敬したという。

中央の二人が乃木、ステッセル


ステッセルがその後本国で死刑宣告された事を聞いた乃木が、駐在員を介し命乞いの運動を欧州の新聞に働きかけ、死刑をまぬかれる事に多少寄与した。

ノシベに向かうロジェストウェンスキーの艦隊。
実はこのノシベに、彼らの艦隊を待っている艦隊がいた。
海軍少将フェルケリザムが率いる戦艦2、巡洋艦3及び駆逐艦数隻等からなる艦隊。
主力艦隊と共に出港したがモロッコのタンジール港で分かれた。

こちらは地中海からスエズ運河を経てインド洋に入った。

石炭供給の集中を避けるのと、スエズ運河を通れる船の吃水に制限があったための分離。
地中海コースは順調であり、文明地帯を通ったため食糧も、兵員の休養面でも十分だった。
その情報は輸送船ルーシから適宜入っていたため、再会を期待する船員たち。
ロジェストウェンスキーの艦隊が投錨し、再会したロ中将とフ少将。

本国からの書状がないか聞くロ中将だが、何ももらっていないと返すフ少将。そして彼らはノシベに二ケ月「放置」された。

この二ケ月待機の理由の一つは石炭問題。元々艦隊には良質な無煙炭が必須であり、ドイツのハンブルグ・アメリカン社とはそう契約していた。だがその無煙炭は英国産であり、ロシア艦隊妨害のため売買が制
限されていた。よって供給されたのはドイツ製有煙炭。
本件打開のため、ロシア政府は艦隊を待機させて各交渉を行ったが、うまく行かず。
もう一つの理由は追加の艦隊支援。旅順艦隊を失った代わりの艦隊を与える意図。だが集められたのは老朽艦ばかり。それらを修理して第三太平洋艦隊を編成する。率いるのはネボガトフ少将。
それを聞いたロジェストウェンスキーは「冗談ではない」と叫んだ。
ロ中将は本国に対し、現艦隊では勢力挽回の希望が持てない 、第三太平洋艦隊は負担増になる 、ウラジオストック入りして敵の海上交通の脅威になりたい、と電信した。
だが本国はそれを無視して第三艦隊を出港させた。
このようにしてその大艦隊は、ノシベに二ケ月も待機し、日本側にとって最大の幸運となった。


黒溝台(こっこうだい)
戦線が、沙河の線で凍結している。

日露両軍とも長大な塹壕を掘り、屋根を被せて掩堆にした。
沙河会戦でクロパトキンは攻勢に出ようとしたもののたじろぎ、ロシア敗北の形で冬営に入った。

本国から補充を待つというのが彼にとっての冬営の意義。
兵員のみでなく砲弾、食糧などの物資も必要であり、冬営が長引いたが、12月になって兵力も充実した。

更に、先の戦いでは総指令官から第一軍のみの指揮権だったクロパトキンが、極東陸海軍総指令官の職名を得た。

そして満州軍が日本軍の編成に似せて三つに分けられた。
第一軍:リネウィッチ大将、第二軍:グリッペンベルグ大将、第三軍:カウリバルス大将。グリッペンベルグ大将は元々クロパトキンと同格だったが、裏工作に遭った。
この冬営中、クロパトキンには兵力をもっと集中させ、満州本部で日本軍を破った勢いで旅順の乃木を背後から襲う様な大作戦も頭にあった。
それに対し新しく赴任したグリッペンベルグ大将は、待つよりも現兵力で今一番弱い日本軍の最左翼(好古の旅団)を攻め、同時に正面攻撃を行うべきだと主張した。
結果としてその強引さに押されたクロパトキンだが、いつやるかと問われてグリッペンベルグに欲が出た。今本国から兵力が輸送されつつある状況。その到着を待つという事で、攻撃開始を1月下旬まで延期し
た。それを決めた翌日「旅順」が陥ちた。
クロパトキンは急に消極的になったが、グリッペンベルグは能動的だった。
結局「第二軍の攻勢を許可する」という態度を取った。進攻は一定の線に留めるという事。突破したら兵力を投入して突き抜けるのが戦略。グリッペンベルグは怒るが、クロパトキンは中間案として、第二軍の攻撃が成功すれば第一軍が正面攻撃をすると言った。

ロシア軍の兵員集結は、諜報活動をしている明石元二郎のところへも情報として入っており、東京の大本営から大山・児玉にも伝えられたが、厳寒時に攻撃などないと黙殺された。
この情報は、騎兵を使った探索を続けていた好古の部隊でも把握しており、再三総司令部に報告したが、一笑に付された。

クロパトキンは、総攻撃に先立ち、日本軍の実情を知るためにミシチェンコ中将の騎兵集団を使おうとした。
旅順陥落により乃木軍は北上する。それを先の部隊が、偵察を兼ねて鉄道その他の施設破壊が出来れば時間が稼げる。

そのための大兵力が準備された。
彼らの最終目標は、日本軍の重要な補給基地がある「営口」
ミシチェンコの軍が移動を始めたことで、秋山騎兵旅団の探索網に触れた。好古はその都度報告し、警告したが「ロシア軍は冬季には活動しない」という固定概念にとり付かれて無視した総司令部。
この大集団に最初に接触したのは、安原政雄大尉の百騎。激しい射撃戦となり、ロシア軍の兵力が多い中、持ちこたえた。

ミシチェンコは、小部隊に関わって時間を取られるのを嫌い、ここを放棄して前進した。
このころになって総司令部は、初めてミシチェンコが営口の兵站基地を襲おうとしていることに気付いた。

ミシチェンコの騎兵集団の破壊活動は8日間続いた。
兵站を守る守備軍に、小出しの救援しか出来ない総司令部。
敵は、鉄道破壊のため特に三つのコサック部隊を編成した。

みな勇猛ではあったが探索能力には劣っていた。農奴や都市貧民で成り立っている「コサック」という集団の教育程度の問題。
よって第一隊が鉄道線に達しながら鉄橋を発見出来ず引き上げ、第二隊は鉄道に装薬したが、日本軍の兵站列車が通過した後に爆発。第三隊も夜間、鉄道を発見出来ず引き上げた。
これらを知り激怒するミシチェンコ。
ミ中将とその兵団は、五つの部隊を編成して、営口はじめ各所の攻撃目的を定めた。これら大機動軍の滑り出しは戦術的に優れていたが、いざ実施段階になると欠陥が露呈し、ほとんどが失敗した。
爆薬の手配が二時間遅れ、営口行きの日本兵を満載した列車の爆破に失敗。
営口を攻撃する部隊はこの方面の包囲を完了したが、日本人がそこにいないという報告を受けた。
実は日本側は老兵ばかりだったため、各所に隠れて敵を待ち構えていた。それを知らずに急進する部隊。
日が没した頃、隠れていた日本軍が猛烈な射撃を開始。

その部隊はほとんど瞬時に潰乱した。
この急襲は失敗となり、ミシチェンコは作戦終了を各隊に命令した。

ミシチェンコ中将の一万騎が南下行動を起こしている時、同じ狙いを持った好古配下の挺進騎兵団が北上していた。指揮官は永沼秀文中佐。兵力は百七十騎。その機動期間は二ケ月、行程は1600キロに及んだ。その間敵兵站倉庫襲撃、コサック騎兵撃退、新開河の鉄橋爆破など大成果をあげた。
日本軍の幹部は、そもそも騎兵を理解していなかった。ゆえに好古の騎兵団を守りに使う愚を犯していた。
そんな中で、自己の所掌範囲で遠方へ百騎以上の単位を敵に放つ挺進騎兵法を試した好古。その最初が永沼。

永沼以下多くの部下が、好古の下でその教育を受けていた。
永沼他全四隊、約四百騎の行動はクロパトキンの情報網に「日本軍騎兵一万騎が北上中」という過大なものに認識された。
このためクロパトキンは、営口へ南下したミシチェンコを急ぎ北上させた。後の奉天会戦では、これら最強部隊のコサック軍は日本軍のいない北方に漂う事になった。
永沼は、破壊を目的としたヤオメンの大鉄橋が警備されている事に驚いたが、柔軟に目標を変更して新開河の鉄橋を爆破した。
永沼隊は、爆破のあと彼らを追って来たレツキニー大尉の部隊から攻撃を受け、戦闘を決心した。数倍の敵を相手に白兵戦を制し、敵は潰走。砲一門、輜重車一輛を奪った。

戦後、永沼らの活動が講和時、思わぬ効果を生んだ。
新開河鉄橋爆破の時、膨大なロシア軍との交戦で部下二名の死体を遺棄せざるを得なかったが、ミシチェンコはこの二名を称えて背の高い墓標を立てた。これが、日本軍がこの地まで侵攻した証拠とされ、想定
より更に北までの鉄道が譲渡された。

話を、ミシチェンコが機動作戦から帰還した時期に戻す。
クロパトキンに、最左翼を守っている部隊(つまり好古)が一番弱いことを的確に示したミシチェンコ。
幕僚との協議も経て、クロパトキンは日本軍左翼の秋山支隊に攻撃を加える事を決定した。またこの攻撃に際し、新鋭兵力も含め自軍からも人員を割いてグリッペンベルグの部隊に与えた。
「まず攻撃されよ。それが成功すれば我が主力は敵の中央を衝くであろう」--成功すれば自分も動いてやる。
本来であれば協調して中央に弾圧を加えれば、層の薄い日本軍は潰滅しただろう。
だが日本軍にとっての幸運は、クロパトキンが同僚との暗争のためにそれをしなかったことであった。
 


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