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坂の上の雲 一  作:司馬遼太郎

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はじめに
二十代の頃、一年以上の入院を経験した時にこの「坂の上の雲」を読んだ。読んだという記憶だけで、その内容についてはNHKのドラマスペシャルに記憶が上書きされてしまっている。
小説読むのは大変だけど、あらすじ的に把握したいと思ってネット探した結果見つけたのが以下。
1、坂の上の雲 (あらすじ) “挿絵と要約” 
「産経新聞」に連載されていた頃の内容の要約と、その挿絵が全て網羅されている。原作の代わりに、とも思ったが結局単行本にする時かなり手が加わっているため代用にはならず。
2、司馬遼太郎「坂の上の雲」 あらすじと心に残る言葉
あらすじとして良く出来ており、頑張れば1時間ぐらいで読める。

ただ、要約の欠落部が気になり、これ読んで原作が読みたくなった。
以上の結果、数十年ぶりに再読することになった次第。
読んだという形を残すため、あらすじにまとめてみた。

ただし自分用なのでかなり「くどい」

一巻感想
このドラマの軸となる秋山好古、真之兄弟、そして正岡子規の、子供時代から二十代辺りまでが描かれる。
明治維新で賊軍だった、四国伊予藩の松山を出身とするこの三人の、自由で伸びやかな姿に、やや羨ましさを感じる。
この当時は、頭さえ良ければ国がいかようにも拾い上げてくれるという社会だった。日本はどこをどう間違えたのだろう。
それにつけても好古の出世ぶりには驚かされる。

風呂焚きで稼いだ銭の一部で本を買って読んだ程度で、受ける試験をことごとくパスしてしまう。
真之にしても、要領の良さで首席を貫く。だが要領がいいというのも、その勉強の本質をつかんでモノにするという点で、それなりの素質が必要。
好古はフランス留学、真之は海軍兵学校を卒業。

子規は俳句に目覚めるも喀血し、自らを子規と名乗る。


坂の上の雲 一  あらすじ

春や昔
まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。
四国は讃岐、阿波、土佐、伊予に分かれ、伊予の主邑(しゅゆう)は松山。城下の人口は士族含め三万。主人公はこの時代の小さな日本だが、三人の人物を追わなくてはならない。
その一人は俳句、短歌の世界で中興の祖と言われた正岡子規。

彼は明治28年、郷里に戻って

春や昔十五万石の城下かな
という句をつくった。複雑な屈折を持たず、伸びやかな表現。
「信さん」と言われた秋山信三郎好古。安政6年生まれ。
信さんが10歳の時に起きた明治維新。ここの藩主久松家は、幕府の命を受けて長州征伐の遠征を行ったが、維新後は官軍だった土佐藩に下った。そして課された十五万両の賠償金。松山藩はこの支払いのため困窮。十石取りのお徒士秋山家などはとりわけ悲惨。

秋山家には既に四人の子がいたが、更に男児が生まれた。堕してしまおうかという話のあった中、親がする「いっそ寺へやってしまおう」との話に十歳の信さんが「あのな、そら、いけんぞな」と止め「おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどお金をこしらえてあげるぞな」
旧幕時代、日本の教育制度は優れていたが、明治になって設けられた小学校には年齢が中途半端で入らず、次いで設けられた中学にも入らなかった信さん。年齢だけでなく、家の困窮も要因。
信さんは銭湯の風呂焚きをする毎日。既に十六歳になっていた。

目が大きく鼻が高い異形で、異人の様な風貌。
当主秋山平五郎久敬は、徒士目付の職から県の学務課の小役人として採用されたが薄給。「食うだけは食わせる」が家訓であり、信さんの風呂焚きもその延長線上。この日当の一銭の中から書物を買ったが、学校へ行ける額ではなかった。
「学校へやっておくれ」と信さんが父に頼むと久敬は「貧乏がいやなら、勉強をおし」
そんな中で「大阪でタダの学校が出来た」という噂を聞く。

池内のオイサン-池内信夫は後の高浜虚子の父親-がその発信者。大阪に出来た師範学校の事だった。父親の方が詳しいというので、それを聞くと家族にだけ明かす事は出来ないと突っぱねる父。
翌日県庁に出向いてそれを聞いた信さん。だが師範学校に入れるのは十九歳から。しらじらしく年齢を聞いて三年待てと言う久敬に(三年も風呂焚きが出来るか)と思った信さん。
久敬は、検定試験で教員資格を得れば助教として月給七円になる。

正教員になれば九円。その後十九歳になってから師範学校を受けよと助言。旅費は私弁だと言う久敬に

「父がなんとかしてくれましょう」と信さん。

明治8年の一月、伝馬船で大阪に出向く信さん。貰ったのは運賃の他には3円だけ。大阪での寝食を考えると二週間がやっと。

悲壮を通り越してむしろ滑稽。
当時は地方の藩の方が教育が行き届いており、町人の町であった大阪では維新の流れの中で教師不足に陥っていた。

それが信さん-秋山好古が大阪にやってきた事情でもある。
試験はうまく行った。

五等教授の免状。どこの小学校でも代用教員が出来る。
まず「河内四十五番小学校」への勤務が命ぜられたが、すぐに行われた本教員の試験を受けると、簡単に合格。

月給が9円になった。好古の成績は主席。
本教員になったため勤務地が市中の「野田小学校」になった。

その学校の寺男の勧めで彼の家に半ば強制されて下宿。
校長の平岩又五郎は、校長風を吹かせる横柄な男(紅鳥先生と呼べとの強要)。この校長以外の教師は自分一人。陰鬱な毎日。
結局「師範学校に入ろう」と転針を決意した好古は、年齢不足を承知で願書を出した。生年を実際より二年早い安政4年と記載。
4月に受験し、口頭試問で干支を聞かれ「羊年」と答えた好古。

願書の生年なら巳年。笑った試験官はそれを黙認した。
及第し、5月に入校した。大阪に出て来てから僅か4ケ月。
入校してからの成績はさほどでもなかったが、それでも一年で卒業出来た。給料は一躍三十円に上がった。
ともかく官費で師範学校を出た。明治九年の当節、師範学校出といえばほとんどが校長として小学校に赴任した。
かつて勤務した野田小学校を訪ね、紅鳥に挨拶した。

ここの校長になるのでは、と恐怖した平岩だが、赴任先は

「愛知県立名古屋師範学校」の付属小学校。
ここに推挙してくれたのは同郷の和久正辰。師範学校時代に名簿を調べて名を知られていた。
名古屋の、その付属小学校の主事が和久。訪れると早速冷酒を一杯湯呑に注いで渡された。これが生まれて初めての酒だったが、よほど体に合っていたのか、声を上げたいほどうまかった。
賊軍になった松山藩を嘆く和久。慶応義塾を出てさえこの身分。

政治と軍事は薩長がやり、教育は我ら非藩閥人がやる・・・

年が明けて明治十年になると、和久が耳よりな話があると持ちかけた。
官費(ただ)の学校があるという。それは陸軍士官学校。

一期、二期の後、三期の募集要項がようやく名古屋に来た。

今すぐ願書を出さねば間に合わぬ。
度外れた親切者の和久は自分の企画に集中している。身を任せるしかない。三年間の就業義務も何とかなるという。
和久の差配で上京した好古は、寮となっている旧久松家の藩邸を紹介されて落ち着いた。士官学校を受けると聞いて罵った書生と喧嘩になり、ブチのめされる事件も経験。
士官学校で願書を出すと士官が、試験は漢文と英語と数学だと言った。どの学課であれ、答案内容で頭の出来をみる様だ。

漢文で受けろと言われた。
試験当日。応募者は二百人程度。薩摩、長州が目立つ。

丹波篠山から来たという本郷房太郎と知り合う。
漢文の試験は「飛鳥山ニ遊ブ」の題による作文。

「飛鳥、山ニ遊ブ」と解釈して書き上げたが、後で聞いたら「飛鳥山(あすかやま)」という地名。知る筈がない。

十日ほど何の連絡もなく「こりゃ、落ちたな」と思う好古。地元の藩の期待を集めて受験に来ている本郷のツテで合否を尋ねると、お互いめでたかったな、との言葉。
その足で士官学校へ行った好古は、寺内正毅大尉から合格を伝えられ、望みの兵科を尋ねられる。歩兵、砲兵、騎兵、工兵の中で騎兵を希望した好古。それが日本の命運の、ある部分を決定付けた。
合格はしたがその頃の軍は、帰郷した西郷隆盛が起こし始めた反乱への対応で、二月になっても入校の沙汰がない。

そのうちに一期、二期の学生まで動員され始めた。
五月になってようやくメドが立ち、四日入学の通知が来た。
第一学年で基礎である代数、幾何、三角、重学(力学)、理学、化学、地学。加えて歩兵、騎兵教練。
第二、第三学年で専門課程を学ぶ。

真之
明治初年は農業しかなかった日本が、初めてヨーロッパ文明と戦ったのが日露戦争。その対決に辛うじて勝った。そのひやりとする程の奇蹟を演出した代表者として、一組の兄弟を選んだ。
既に登場している秋山好古と、秋山真之。兄好古は世界最強と言われたロシアコサック騎兵集団を破り、弟真之は連合艦隊の参謀としてバルチック艦隊を破った。
この兄弟がいなければ、日本はどうなっていたか分からないが、この兄弟の本来が軍人志願でなかった事に、筆者は限りない関心を持っている。

伊予松山で好古の九つ下の弟真之が育っている。

幼名を淳五郎といった。
秋山の淳ほど悪い奴はいない、との評判。
七、八歳の頃、寒さで二階から放尿した時の歌
雪の日に 北の窓あけシシすれば あまりの寒さにちんこちぢまる
それを聞いて密かに感心する父の久敬。
十歳頃になると絵もうまくなった。凧絵を描く大人を真似るうちに真之の方がうまくなり、近所で「秋山の凧」と呼ばれた。
真之より一歳上の正岡子規は幼名を升(のぼる)といった。
新しい教育をすると言われた勝山小学校に子規が入ったのちに、真之も入って来た。
十二、三歳の頃、火術方だった桜井家の息子の家から持ち出した、花火の火薬調合書を元に花火を作ろうと言い出した真之。硝石、木炭、硫黄を集めさせ分業で花火を作ってしまった。
そしてある日の夜に決行。どかぁーん、と花火があがり大騒ぎとなった。集まる警官から皆が逃げたが、その後の調べで半数が捕まり、首謀者が淳だと判明。警官が自宅まで来た。
「私も死にます。おまえもこれで胸を突いてお死に」
と、日頃おとなしい母が真之に短刀を突き付けて叱った。
一方子規は臆病で、能狂言を見せても鼓や太鼓の音を怖がったという。

少年時代の真之にとって最大の事件は、兄好古の帰省。

その時十歳だった真之。士官学校の制服を着て、見違えるほどの大人になって帰った好古を見て逃げ出そうとしたが、母親に捕まった。
命の恩人だという話をさんざん聞かされた。

好古がいなければ寺にやられたというあの話。
好古は、金を送るから真之を中学に入れてやってくれと父に頼む。

明治12年、真之も子規も松山中学校に入った。愛媛県立松山中学校。英語、数学、漢文が教育の三本柱。
文学趣味が出て来た真之は、母に頼んで井出真棹に師事した。

一方子規は漢詩に夢中だった。
子規の仲間が五人ほどおり、漢詩の結社を作って筆写の雑誌を回したりしていた。その仲間に入らないかと誘う子規だったが、断る真之。

嫌をいやとはっきり言うのを畏れもした子規。
中学四年の頃には自由民権運動の演説に夢中になる子規。

志士と呼ばれる人たちの演説を聞き漁る毎日。
漢学も受け付けなくなり、東京へ出たいの思い。

叔父で外務省に勤める伯父 加藤恒忠に手紙を出すも断られると、叔父の親友好古への説得依頼を真之にして来た。

断る真之は、この地上で兄だけがこわかった。
東京の大学予備門に行きたいと真之に話す子規。

東京へのあこがれ。
試しに母親に、自分も中退して大学予備門に行きたいと言うと、中退はだめだと言われた。

明治16年6月、中学を五年で中退して東京へ行くことになった子規。半年に亘って手紙を出し続けても断っていた叔父から「出てこい」との知らせ。加藤自身にフランス留学の話があり、今を逃しては世話をする機会がなくなる。羨ましく、さびしい真之。取り残されるあせりもあった。
船を乗り継いで上京した子規は、まず叔父の手配で予備校へ入る事となり、友人だという陸羯南(くがかつなん)を紹介された。

生涯子規のよき理解者であり、やがて新聞「日本」をおこす。

子規の友人も数名中学を中退して上京し、それが流行のようだった。目標は東京大学予備門。
だが真之にもその幸運が訪れた。兄からの「上京せよ」との手紙。
真之はその年の秋に上京した。

さすがに出航の時には泣き出したという。
麹町三番町の佐久間正節の屋敷が兄好古の下宿先。何とか辿り着き、兄の帰りを待つ真之。部屋には家具と言えるものはなく、鍋、釜、茶碗がそれぞれ一つあるだけ。
夕刻になって兄が馬で帰って来た。華やかな騎兵将校姿。
飯だけは下宿先で炊いてくれた。夕食が始まるが、おかずはたくあん。それに茶碗は一つ。好古が茶碗に酒を注いで飲み、空茶碗を真之に渡す。弟はそれで飯を食うという具合。
好古は珍しいほどの美男だったが、それを人から言われるのを極度に嫌った。男にとって必要なのは、若い時には何をするか、老いては何をしたかということ。これだけを人生の目的とした。

騎兵
騎兵。これほど日本人に分かり難いものはない、と弟に言う好古。
日本では身分の高い者が馬に乗り、それ以下は徒歩兵。
それに馬格のとびきり小さな日本馬は騎兵の乗馬足り得ないため、オーストリアからメス馬六頭を輸入して、日本馬と交配させて育てるという段階。兄さんは心細い軍隊にいる・・・
好古は、日本史に騎兵を求めるなら、源義経とその軍隊だと言った。乗馬部隊を集団で用いたのは義経だけ。
騎馬部隊の特質はその機動性。だがそれは欠点でもある脆さと一体。奇襲に失敗すれば的が大きいだけに簡単に倒される。
天才のみがやれる戦法だと言った。

この兄は天才かも知れない、と真之は思った。

騎兵の起こりは西洋ではなくジンギス汗。

ヨーロッパ侵攻時は騎兵集団の白刃攻撃で常に成功した。
次いでこの用法の天才はナポレオン。

重騎兵と軽騎兵。更に竜騎兵も運用した。
明治初期の日本陸軍はフランス式を真似たが、馬がない事で騎兵だけはそれが困難だった。それに、この日本では騎兵運用をする場などないという事で軽く見られた。満州の曠野で世界最大の陸軍国と戦うなどと予想出来る者はいなかった。
「騎兵の父」と言われた好古は若い頃から、ほとんど一人で騎兵育成に苦慮して来た。

子規の東京での保護者である陸羯南は、あくまでも彼に優しく接した。それは友人から預かっている以上の思い。
一方好古の、真之に対するそれは「野蛮主義」。

新聞など読んでいれば害になると取り上げた。
身辺は単純明快でいい、という主義。

下駄の鼻緒が切れて、もたもたしても「はだしでゆけ」
子規は神田の共立学校に入り入試に備えた。

真之もそこに入ることになる。
そこで英語を教える教師が見事な発音。語学なんざ馬鹿でも出来る、と語学に対する恐怖心を取り除く配慮。だるまさんと子規が付けたあだ名が終生のものとなった。その教師は「高橋是清」。
日露戦争では日銀副総裁として戦費調達に奔走したが、2.26事件の凶弾に倒れた。

好古が離れを借りている佐久間家に十四歳の小娘「多美」がいた。

好古が可愛い風貌からつい「狆(ちん)」と言ってしまった事に立腹。

口をきかなくなったという。
はるか後年になって、まさか自分がこの軍人の妻になろうとは、当時夢にも思っていない。

創設ほどない日本陸軍にも、陸軍大学校設立の波が来た。参謀と将官を養成するための場所。
教官は外国からの調達として、当初は今でも教育に浸透しているフランスからを考えたが、ドイツ陸軍が先端だという意見で、大山巌と桂太郎が人探しに出向いた。参謀総長モルトケの推薦で挙がったのがメッケル参謀少佐。43歳独身で一級の軍人。

それを馴染み薄い日本に送ろうという。契約は一年。
即答を控えたメッケルは「モーゼル・ワインはあるか」との問いの答えを聞いて日本行きを決意。
彼の功績を考えれば「運命のモーゼル・ワイン」
明治16年、好古は25歳で陸軍騎兵中尉に任官し、すぐ陸軍大学校に入校。
学生は15名。最高の戦術戦略を教え、将来の参謀や将官にする。

だがそれを教えるのは外国人教師。

彼らが来るまでは数学を教えられての10ケ月が過ぎた。

上京後一年が経ち、子規は大学予備門を受けてみようかと仲間を誘う。だがその子規が一番危ない。兄にそれを相談するが「勝てる喧嘩をしろ」と好古。ただ学費が頭痛の種。

旧藩主の給費生になる事を考えていたが、それを否定する兄。

ひとの厄介になるのは生涯のシワになる。
学費は棚上げのまま勉強に没頭。

一方呑気な子規は時々遊んでいた。そして受験。

子規はよほど運がいいらしく、難なく受かった。真之も合格。
祝いと称して酒を飲む好古。子規と真之は飲めない。

話の接ぎ穂に子規が誰を一番偉いと思うか聞くと「福沢諭吉」と答えた好古。軍人でない事に驚く二人。
晩年自分の子らを慶応に入れた好古だが、生涯福沢には会ったことがなかった。
明治二年、旧幕府最高の学校「昌平坂学問所(いわゆる昌平黌)」を大学校と改めた。明治19年に帝国大学の設置が規定されたが、真之たちはその制度の前の入学であり、大学予備門は旧制高校の様な位置付け。入学早々英語に音を上げる子規。

七変人
子規は下宿を良く変えた。それを羨ましく思った真之が兄に頼んでみると、意外にも許された。

好古は勉学に多忙で、真之との生活にズレを生じていた。
それで子規と同居する事になる真之。

部屋代が浮くので子規は有り難い。
元々政治家になろうとして上京した子規だが、荘子の講義を受けるうちに哲学に興味を持った。
だが哲学をやるために生まれて来た様な男、米山保三郎を知ったことでそれを断念する。論戦で歯が立たない。

おまけに子規より二歳も下だと知ったのが決め手。
そのうちに人情本などを多数読むようになり、真之は不機嫌だった。

大学予備門での生活は、子規にとって快適だった。同級の親しい仲間を「七変人」と言って自讃していた。関甲子郎、菊池謙二郎、井林広政、正岡常規(子規)、秋山真之、神谷豊太郎、清水則遠。
この連中で義太夫を見たり牛鍋を食ったりした。
その年の夏休み。仲間の話す無銭旅行の体験談を聞いて、行こうと言い出す真之。これが子規の言う軽躁。行き先は江の島。夜半に出掛け、最初は勢いがあったものの、真之は真っ先にあごを出した。
神奈川までくるとすっかり朝。餅を買う金もなく、ヨボヨボと歩きながら戸塚に着いたのが正午。
午後一時ほどになって、寝ている真之が起こされると「たのむ、東京へ帰ろう・・」
幸い金を持っている者のおかげで電車に乗ることが出来た。

将来について思い悩む子規。勉強が出来ないうえに日本一を欲した。だが哲学をやるにも日本一は米山だろう。
真之に相談する子規。今となっては文芸がなくては夜も明けぬ。
実は真之も悩んでいた。大学予備門には入ったものの、兄の給料で大学に行くのは不可能に近い。
好古は戦術研究のため、書物にも金が必要だった。
学費無用の学校といえば、陸軍士官学校か海軍兵学校。ゆくなら海軍だな、と思いつつも今の快適な生活を捨てたくない。
そんな思いで、最近子規に影響されて浄瑠璃本などを読んでいた真之は、一緒に文芸を目指そうと言う子規にも話を合わせていた。

ついに、兄に相談する事に決めた真之。だが好古は陸大に入った事で下宿を変わって場所が分からない。結局陸大まで行って兄に会う。

兄の馬術を見ながら待った。なるほど見事なもの。
授業が終わり、寮まで連れて行かれる真之。予備門を辞めたいと言うのに授業料の事は言えない。
騎兵陸軍中尉秋山好古として、どうあるべきかを語る兄。

単純であろうとしている。
軍人は、この国家を敵国に勝たしめるためのもの。

負ければ軍人ではない。
勝つことだけを考える。それ以外は余事。
真之は、今のままで行ったら二等の官吏、二等の学者になるしかないと言う。自分は要領がよすぎる。
それは自負でもあった。一種天才的な勘があって、試験などもヤマを当てる名人だった。
その話をまじめに聞いてやった好古。

不思議な直観力に気付いていた。
(軍人にいい) 作戦家ほど才能を必要とする職業はない。
「淳、軍人になるか」と言われ、勢いよく頷いたが、喜びは沸かず。

それは快適な生活を捨てる事でもあった。

海軍兵学校
真之は、海軍に入ることを決意した。それを兄に伝えると翌日、願書受付が明日までだと教えられ、慌てて出掛けた。
築地にあるその場所まで行って願書を出すと、その足で大学予備門へ行き退学届を出した。
志願手続きは終えたが、子規にはそれを伝えることが出来なかった。
試験は9月26日に行われた。志願250名に対し採用は50名。二次試験は10月12日。
真之は合格した。保護者である好古に通達が来たのは11月。
好古は、秋山家の先祖が伊予水軍だったことを話した。その子孫が日本海軍の軍人になる。目をうるませる好古。
所定の手続きを終えたが、子規へどう伝えるかが苦になった。
子規は机の上の手紙を見つける。それは真之からのもの。

明治19年12月、真之は築地の海軍兵学校に入校した。真之は入学試験こそ席次15番だったが、一年の終わりからは首席を通した。

入校するまで海軍の事を知らなかった真之。
明治政府は、海軍教育を英国式に統一すべく、英国政府に教官団の派遣を乞うた。明治6年に来たのがアーチボルト・ルシアス・ダグラス少佐。団長以下、士官5名、下士官12名、水兵6名。
その後艦隊は次第に整備され、海防艦程度は国産もされる様になった。
海軍兵学校の生活は日本的習慣から断絶していた。

生活言語はほとんどか英語。
「お前たちは留学する必要がない」というのが教官の口ぐせ。
東郷平八郎は、真之の入校当時軍艦「大和(初代)」の艦長で、新任の大佐だった。
風変りな東郷の履歴。薩摩藩士として海軍に属し戦艦「春日丸」の三等航海士として戊辰戦争に参加した。
戦後、海軍を辞めて工学系技師になろうとしたが、説得されて英国留学した。そこで水夫待遇として商船教育を受けた。先輩にはそうした者が珍しくなかった。

真之が英国式教育を受けているのに対し、好古の属す陸軍はドイツを師とした。
以前触れたプロシャ(ドイツ)陸軍メッケル少佐による教育。日露戦争で勝利した日本軍の参謀将校のほとんどがメッケル門下生。だがメッケル自身は皇帝ウィルヘルム二世に好まれず、母国では冷遇された。
着任当時のメッケルは、ドイツ軍一個連隊を予が指揮すれば全日本軍を粉砕出来ると豪語。
当時の陸軍部隊の最大単位は「鎮台」。方言で未だに兵隊の事がチンダイさんと言われる。
この考え方は防御が主体であり、それを児戯だと否定するメッケル。
鎮台が「師団」に改められた。はるかに機動的で運動能力を持つ。

これにより軍隊目的が外征用に一変した。
元々日本陸軍は、旧幕府がフランス式だったのを引き継いだ。

当時ドイツは日本にとって縁がうすく、プロシャなどは欧州の二流国と思われていた。
それが普仏戦争によりプロシャ軍はナポレオンを降伏させた。

この勝利はメッケルの師モルトケがもたらしたもの。

その主眼は主力殲滅主義。それを伝えるためにメッケルが来た。

メッケルが最初に着手したのは「操典の検討」。操典とは軍隊運動の基礎的動作のことであり、生徒たちは履修済み。

だがそれらがいかに実際的でないかを説くメッケル。
特に注力したのは作戦に関する操典。今までのものは理論的すぎる。ドイツ式は全てが実戦的。
指揮官の能力は固有のものではなく、操典の良否によるもの。
メッケルの思想は「戦いは出鼻で叩く」 宣戦した時には既に叩いているのが基本。
最初はこれを卑怯だと不審に思う生徒。

国際法順守に多くの時間を割いて来た。
だがメッケルはいいと言う。

悪徳弁護士の様な卑屈だが、違法ではない。
それ以来「宣戦と同時攻撃」は日本人の伝統的やりかたになった。
次いでメッケルが強調したのが「兵站」。作戦のために必要なあらゆる物資を後方で確保し、必要に応じて戦線に送る。

学生たちにその概念がない。

真之の勉学生活が続く。入校の年は気持ちが落ち着かなかった。

だが二年目からは覚悟が出来、その後は首席を通した。
毎年3月に行われるマラソン大会。明治32年度の大会は第2位。

一位の分隊を指揮していたのは広瀬武夫。顔が真っ蒼だった。

左足が髄膜炎にかかっているにも関わらす激痛に耐えて走った。

足を切断する寸前まで行ったという。

後に、あの時の感動から真之はこの人物と親しくなった

真之らの在学中に、学校が移転した。華美になる東京が教育にふさわしくないとの配慮。行き先は広島県江田島。移転は明治21年8月。
故郷の松山に近くなったのを真之は喜んだ。
この夏の休暇で松山に帰郷した真之。父の久敬は「八十九(やそく)翁」と号していた。

この前後の好古の官歴に明治20年(29歳)7月 東京鎮台参謀ヲ免ジ、自費仏国留学ヲ許可 とある。
旧藩主久松家の藤野老に呼び出される好古。

明治とはいえ元藩主の威光は残っている。
当時西洋の貴族が教養面で優れていたのに対し、日本の公卿、殿様は能力者の代表と言われた。それに対応するため流行した海外留学。
二十歳ながら久松家当主となっている定謨(さだこと)様がフランスに留学して三年。それまでは好古の友人でもある加藤恒忠が輔導者として付き添ったが、次にはサンシール陸軍士官学校に入学する事になり、加藤の手に余る。そこで好古に輔導者の役を打診された。
返事のしようがない好古。既にメッケルからドイツ式軍事学を学んでいる。今フランスに行って学んでも、日本の陸軍の主流からは外れる。
好古の他のもう一人の候補 仙波太郎という者がおり、年上だったが飲んだ仲でもあった。

彼は平民のあがりであり、藩主の御用を強要出来ない。
ここまで言われたら、旧藩士として断れない。「渡仏します」

そんないきさつで、真之が帰郷した時には好古はフランス。
彼からの手紙を見せる八十九翁。その第一信は「まるで田舎の処女が吉原に担ぎ込まれたようなものです」
ヨーロッパ文明に圧倒された好古の第一印象。
フランスにおける生活費は、久松家から年額千円を貰っていたが、友人加藤恒忠との酒やフランス将校とのつきあい、買った馬の維持費などで消え、時に一週間パンとバターだけで暮らした。


好古のフランス留学は、足かけ5年に及んだ。

本国に好古の困窮が伝えられ、騎兵研究への期待も込めて途中から官費留学に切り替えられた。その金は一年千六百万。
外務省の加藤恒忠が、好古の病気を聞き見舞いに行くと、胸に多くの発疹。高熱で目は充血。
だが頑として医者には行かない。加藤の診立てでは「発疹チフス」。

当時特効薬はない。内科の本を読んで自力で治してしまった。

留学日本人が発疹チフスで騒がれるのを嫌った。
陸軍省からの好古への訓令は、騎兵に関する戦術、内務、経理及び教育。要するに騎兵建設の全てをこの三十歳の大尉に任せた。

そして種別は「軽騎兵」
経済的理由から日本ではこれのみが採用されていた。フランス陸軍では胸甲騎兵(重騎兵)、竜騎兵、軽騎兵を有し、攻撃内容によって使い分けていた。その余裕が日本にはない。

サンシール士官学校の老教官と親しかった好古。

だがアル中で皆から相手にされない。
彼はジンギス汗の騎兵戦略を高く評価した。それが中世ヨーロッパの戦術思想を変えた。

日本はジンギス汗から何も学ばなかったのか?と聞く老教官。
彼の話では、天才的戦略家のみが騎兵を運用出来る。

騎兵は無用の長物だとも。
中世以後、四人の天才だけが騎兵を意のままに使ったという。
ジンギス汗、プロシャのフレデリック大王、フランスのナポレオン、プロシャのモルトケ参謀総長。
君はそういう悲劇的な兵科に身をおいている・・・
先の四人に二名加えるべきだと言う好古は、源義経と織田信長を挙げ、それぞれ鵯越えの戦法、桶狭間合戦の内容を説明した。

納得し、以後六名としようと言った老教官。

好古の渡仏中に、日本陸軍がフランス式からドイツ式に切り替える公示が正式に発せられた。
覚悟はしていたが、実際にそうなると大変。運用がまるで違う。

それにフランス軍人が不快感を示した。
フランス馬術は馬の運動リズムに合わせているのに対し、ドイツ式は馬上の容姿に重点が置かれ、疲労が甚だしい。
そんな時期、当時の日本陸軍総帥の山県有朋が、欧州視察に出発した。目的は各地方自治制の視察だが、兵法をドイツ式に切り替えた事をフランス軍の釈明する御用も含まれていた。
昭和22年正月、マルセーユに着いた山県だが、当然パリへ向かうと思われたのが、ベルリンに向かった。僅か十数年でドイツへの傾倒を深めた日本。それを山県に吹き込んだのが桂太郎。

普仏戦争の勝利や、それによる商工業の発展。

やがて山県がパリにやって来た。留学生としてこれを出迎えるべきだったが、それを遅刻して貴賓室に入る好古。気まずい。
パリに居ながらドイツ礼賛を続ける山県。そんな中でフランス馬術を説くのは困難だが、ここで言わねば身動きが取れなくなる。
随行長の平佐是純に、馬術だけはドイツ流を採用なさってはならぬと発言。そりゃ好都合だ、と平佐。彼は同じ騎兵科。あの乗り方には無理があると思っていた。遠慮はいらぬからやれ、との返答。
山県に耳打ちする平佐。
発言を許され、先の意見を述べる好古。だが山県にすれば陸軍をドイツ式に切り替える以上、ごっそり移植すべきである。

ただ否定はせず「考えておく。そのことを更に研究するように」

と言った。
滞在中、山県は好古を案内役の一人にした。ある時リヨンに居る陸軍高官へ、日本からの土産を好古に言づけたが、すぐに帰って来た。

山県が聞くと、汽車で酒を飲んでいるうちに土産を紛失したという。
あきれた山県。秘書や副官は勤まらない、とその後はそうした用事は命じなかった。

ほととぎす
明治22年。この年、子規は健康でない。
昨年までいた高等中学(大学予備門から改称)の寮から旧松山藩の寄宿舎に移っていたが、喀血した。医者の診断では「肺結核」。

応急の注意を伝えられるも、それを守らず一週間喀血を繰り返した。
それに衝撃を受けつつも自分を他人の様に見る子規。
この時「ほととぎす」を題材にしたいくつかの句を詠んでいる。
ほととぎすは時鳥、不如帰、子規などと書かれ、血を吐くかの様な鳴き声から、これ以降自らの号を子規とした。
この前年にも子規は血を吐いており、気付くべきだったが、明治20年頃からベースボールに熱中した。

「野球」の名付けは子規だと言われている。
新任の寄宿舎監督 内藤鳴雪がそれを知って帰国を勧めたが聞かず、それが実現したのは学年試験を終えてから。
この時期東海道は全通していたが、汽車の旅は病人には厳しく、神戸からは汽船を利用。
母方の実家である大原家(加藤恒忠の生家)で療養のための部屋を建ててくれており、そこに落ち着く子規。
妹のお律。子規より三歳下の二十歳で、中堀家に嫁していたが、始終母の手伝いに訪れており、兄も自分が看病すると言った。
幼い頃、悪童にいじめられる子規を庇って、向かって行ったという。

帰省して一週間もすると体力もつき、出歩き始める子規。河東静溪を訪ねて長い間文学談義を交わした。この人の息子が碧梧桐。
子規が帰るとお律が、秋山家から使いで、真之が近いうちに帰って来るとの伝言を伝えた。
真之が入学した時以来一度も会っていない。

二、三日よりかなり遅れて真之が見舞いに訪れた。病状を聞くと、帰郷してから一回喀血したという。だが医者の診立てでは、ひどい咳のため気管が破れた。それで一句作った。
汽管破裂蒸気あぶなし血の海路
感心はしなかったが、死病にかかってもたじろがないこの友人に感動した。

帰省中の真之は、子規を見舞うこととお囲い池で泳ぐ事しかしなかった。お囲い池には旧藩時代から水練師範の正岡久次郎老人が監視に来ていた。義務ではなく無給。
ここでは褌を付けて泳ぐのが規則だが、ある日陸軍の兵隊二人が来て素っ裸で泳いだ。老人の制止も無視。
それを見ていた真之が男より先回りして、彼らが水から上がろうとした時、濡れ手拭いでひっぱたいて水中に突き飛ばした。それが翌日騒ぎになった。
松山にも連隊が置かれるようになって、その中の工兵の質が悪く、前述の様な行為が目立っていた。
翌日、同じ様に池で昼寝をしていた真之のところへ、昨日の二人が仲間を連れて来た。ざっと十名。
睨みつけて自分を秋山と名乗る。だが相手は誰も名乗らず、兵隊を侮辱したと言うばかり。仲裁のために正岡老人が、水の中での勝負を提案するが、敵わないと見て避けた相手は、結局警察に訴えた。
この話は町じゅうの評判になり、警察からの呼び出しも受けた。
やって来た巡査に「当家におりませぬ」ととぼける八十九翁。
その後も毎日来る警察に議論を吹っかけて言い負かす真之。
八十九翁は真之に「兵学校にお帰り」と言って帰させ、自らがよろめきながら警察に出向いた。
兵隊が毎日来て署長も困っている。五十銭でいかがでしょう、との言葉に喜ぶ署長。科料五十銭で本件は決着した。
勝ち負けにうるさい真之のために、本件は内密に、と念押しする八十九翁。
明治23年12月19日に永眠した父久敬。
その年の7月に兵学校を卒業した真之。

軍艦
勉強をせずに首席になった、というのが下級生も含めての評判。
そんな真之は卒業する時、入学して来た伊予出身の一年生 竹内重利に、過去5年間の試験問題を渡した。教官はたいてい繰り返して問題を出す。徹底した傾向と対策の成果。卑怯ではないかとの問いには、試験は戦いと同様。戦術であるから卑怯もなにもない。
真之は創造力がありすぎ、既定の学習に適していなかった。

教育的強制から解かれて、天才的作戦家として開花する。
7月卒業と同時に少尉候補生となった真之は、姉妹艦である「比叡」と「金剛」に乗艦して訓練を受けた。
そんな時にすれ違ったトルコ軍艦「エルトグロール」。日本に国交親善使節を送りその後帰国しようとしていた。
9月16日の台風により、このトルコ軍艦が紀州沖で沈没した。
艦長以下581名が死に、生存者はわずか69名。

政府はこの生存者を比叡、金剛でトルコまで送る事を決めた。

初の遠洋航海が出来ることを喜ぶ真之。
トルコは、かつて16世紀頃には隆盛を誇っていたが、17世紀頃から衰退。1878年にはベルリン列国会議で領土の多くが割譲された。

当時世界中の国々が国力伸張を競い、その象徴が軍艦。維新後20年を経た日本も努力はしたが、列強から見れば論外の規模。

国威を示すため遠洋航海にも挑んだ。
この間、隣国の清帝国も近代化に目覚め、李鴻章は艦隊整備を始める。彼の構想規模も大きさを示す、世界最強の戦艦「定遠」と「鎮遠」。ドイツ製で装甲30センチの「ほとんど浮沈艦」。
真之が遠洋航海から帰った明治24年7月に、清国北洋艦隊の丁汝昌提督が、親善と称してこの両艦を含む艦隊を率いて横浜港に入った。もちろん外交上の威圧が目的。
国内要人も集めて「定遠」上での懇親会。
結果としてこの訪問が、政府や世論へ海軍増強を促すことになった。

真之が海軍少尉に任ぜられたのは明治25年5月。次いで明治26年6月に、英国にて製造中軍艦「吉野」の回航委員を拝命。

回航委員は15名。吉野は巡洋艦だが、当時世界最速。
同艦は明治26年10月に英国を出発し、翌27年3月、無事広島呉の軍港に着いた。


 


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