今回の番組は2017年10月31日放送のもの。
録画して一年以上放置後の視聴。
「あの年この歌~時代が刻んだ名曲たち~」 は2014年からBSジャパンで放送されているもの。レギュラー放送は2018年3月、200回を以て終了。その後1回スペシャル番組を実施。
たまに観る程度だったが、今回は副題の「中津川フォークジャンボリー」に引っ掛かった。
このイベントの三回目の時、自分はその現場にいた。
その事は以前にもココでBlog化している。
番組レビュー
1970年を象徴する事件。
日本初のハイジャック よど号事件。犯人は北朝鮮に亡命。
'70年の主要な出来事
この年の年間シングルランキング
①黒ネコのタンゴ(皆川おさむ)②ドリフのズンドコ節(ドリフターズ)③圭子の夢は夜ひらく(藤圭子)④女のブルース(藤圭子)⑤逢わずに愛して(内山田洋とクールファイブ)⑥手紙(由紀さおり)⑦愛は傷つきやすく(ヒデとロザンナ)⑧今日でお別れ(菅原洋一)⑨ヴィーナス(ショッキングブルー)⑩京都の恋(渚ゆうこ)
フォークジャンボリーが行われた三年間を振り返り、音楽を巡る歴史を考える。
第一回 1969年 第二回 1970年 第三回 1971年
アナウンサー 佐々木明子、
ホスト 坂崎幸之助(アルフィー)、野瀬泰申(コラムニスト)
1970年のイベント
力石徹の葬儀。寺山修司が企画。TVアニメ放送の1Week前に開催。
あしたのジョーブーム(反体制側の若者の思い入れ)
生涯で一番印象に残るアニメ(坂崎)
坂崎コメント
中津川フォークジャンボリーは、日本のフォーク歌手の代表がほとんど集まった。行きたかった。音楽雑誌にもいっぱい出ていた。
だが当時の中高生にとっては遠いイベント。
深堀りキーワード
・岡林信康「友よ」 フォークムーヴメントの始まり
・五つの赤い風船「遠い世界に」 フォークで金儲けは許されない
・吉田拓郎「人間なんて」 フォークの世代交代とメジャー化
フォークジャンボリーの歴史
出演者一覧
1969年8月9,10日 (第一回) フォークムーヴメントの始まり
入場者:3000人 入場料500円
なぜ中津川で出来たのか。新宿西口フォークゲリラ締め出しの時期、中津川にも熱い仲間がいた。
主催者:笠木透。
場所は中津川市坂下町。
農業用の人造湖「椛の湖」の近く。山を削り、会場作りから始めた。
数ケ月かかり電気、水道も引いた。
フォークの発祥はアメリカ。プロテストソング。代表はボブ・ディラン。
多くの共感を得た(日本の学生運動とも親和)。
日本では髙石ともやが広める(自作の言葉で歌詞付け)。受験生ブルース(1968)で有名に。
シングアウト(先に歌詞を言って、後に皆で続ける手法)はこの頃から。フォークコンサートは大きなゼミナールみたいなもの。
髙石に衝撃を受けた笠木は自らフォークグループを結成。髙石とも意気投合→フォークジャンボリー構想。
坂崎:事故がなくてよかった(笑)。高校の時、服装自由化運動やった(実現)そんな時代。
1970年8月8,9日(第二回) フォークで金儲けは許されない
入場者:8000人 入場料800円
日本経済はうなぎのぼり。その代表が「万博」
二回目ではメインステージの設定(山側に観客)。
音楽だけでない楽しみ方もちらほら。
アングラの女王、浅川マキら有名人の参加。
カリスマ岡林信康の登場。「私たちの望むものは」
大成功と思われたが、商業主義との批判も浴びた。プロの出演者が増え、シロウトが参加出来なくなった→フォークで金儲けをしている。出る人が勝手に歌っているという印象。
二回目で運営側は借金を抱える。当時スタッフの話では銀行から200万以上借りた(今なら十倍以上)。
何故か? 食事の提供持ち出し。
売店も勝手に出してテナント料取らず。
1971年8月7~9日(第三回) フォークの世代交代とメジャー化
入場者:2万5000人 入場料1000円
通行手形
学生運動は沖縄返還調停で幕引き。マクドナルドのオープン。
豊かさの波が押し寄せる。
借金を抱えた笠木は第三回を開催せざるを得なかった。更にマスコミの餌食になるのは必至(商業化は避けられない)。
主催しながら自分の意思とは違う方向。
吉田拓郎の初登場。彼はメインステージには出られなかった。
サブステージでの事件。機材トラブルで音が出なくなり、ナマ音で「人間なんて」を長時間演奏(約40分)。圧倒的な支持を受けた。
その晩学生がメインステージを占拠。残りのライブが全て中止。主催者側へ釈明を求める学生たち(音声データ)。
笠木が説明。フォークソングが全ての民衆の財産。それをお互いに発表し合って共有、全国に呼びかけた。
観客は更にエスカレートし、岡林信康に説明を求める。だがこの場に出て来ない、彼の歌は何者か。だが岡林は会場から脱出していた。
この件がフォークの世代交代として象徴的に伝えられた。
吉田拓郎は「結婚しようよ(1972)」で個人の幸せを歌い、プロテストソングに幕を引いた。そのきっかけがフォークジャンボリー。
笠木は2014年に死去。フォークジャンボリーがフォークの商業化、一極化を生んだと悔やんでいた。
中津川に現在「フォークジャンボリー記念館」がある。
坂崎らの話
岡林さん用事があった? 怖かったんでしょう(2万人の怒り)。
今だったら楽しいフェス(ぜいたくな)。あの頃はそうじゃなかった。フォークは俺たちの歌という思い。
だからフォークのコンサートで拓郎さんが出ると「帰れ」コールが湧いた。彼は最初からフォーク嫌い。だって沢田研二側に行きたかった人。
回りがフォークの貴公子なんて言って作り上げた(フォークギターを持っていただけ)。
メロディはフォークではない。ポップで詞も万人向け。
伝説の「人間なんて」も二時間やったという話があるが、本人は「そんなにやってねぇ」
あの事件で時代が変わったという印象を世間に与えた。
「今日までそして明日から」の歌も象徴的。
感想
録画を消すつもりで今回レビューしたが、観返しているうちに「これはライブラリーとして残すべきかな?」と思ってまだ消していない。
'70年のシングルランキングで、洋楽の「ヴィーナス」が入っていたのにはびっくり。全世界的に流行ったから「さもありなん」。
俳優の佐野史郎も3回目の時に、松江からこれを観に来たらしい。ココにちょこっと記載あり。一緒に居たんだ・・・・
当時周辺の高校ではコレを観に行くのが禁止されており、まあ自分もよく行ったものだと感心(オートバイで1時間弱程度のところだった事もあるが)。
サブステージでの、六文銭や吉田拓郎の演奏はリアルタイムで観ており、当時の音源が非常に懐かしかった。
そういえば「はしだのりひことクライマックス」も帰れコール受けて引っ込んだなぁ・・・