作:沢木 耕太郎 挿絵:中田春彌 7/28(471)~8/31(505)
花の道(1~35)
大塚との戦いで勝利した後、4月の世界戦まで2ケ月しかない。翔吾はそのまま体力を維持する方針を取る事とした。
翔吾の試合の後で行われた世界戦の勝者が翔吾の対戦相手となるが、予想を覆して挑戦者のアフメド・バイエフが勝者となった。
ある日、翔吾に付いてミット受けをしている時に、広岡は心臓に異変を感じた。休憩を装い、トイレでニトログリセリンを舌下に入れる。そして何とか危機を脱する。
死んでも構わないと思っていたのが、翔吾の行く末を見届けたい、との望み。
アメリカで紹介されていた日本の病院に連絡を入れた。担当の医師は症状を聞き、できるだけ早く来院するようにと言ったが、試合までは無理だと考え、翔吾の試合の3日後に受診する事とした。
練習を終えた翔吾が、前髪を右手で払う動作をするのを見て尋ねる広岡。「髪がうるさくて」と言う翔吾だが、短髪の彼にそんな前髪はない。
驚愕する広岡。
夕食後のひととき。広岡はいつもの三人に、翔吾が網膜剥離かも知れない、と告げた。元トレーナーのペドロが育てていたジェイコブスが、網膜剥離で引退した。その時の予兆の仕草が髪を払うものだった。
翔吾が佳菜子とのデートから帰って来ると、広岡は翔吾に、右目の異常を感じた事はないかと尋ねた。最近何となくおかしいとは思っていたと返す翔吾。
それでも世界戦はどうしてもやりたいと言う翔吾。
月曜になって市民病院の眼科を受診する翔吾。状態としては「網膜裂孔」だという。夕食後にその事を皆に伝える翔吾。
広岡らの議論。世界戦は、失明の危険を冒してまでやるべき事なのか・・・
先のない議論の中で佳菜子が、自分が治したいと言い出した。佳菜子の持っている不思議な能力。
佳菜子はその晩、翔吾と一緒に部屋へ上がって行った。残された四人は酒を飲み、あるいはコーヒーを飲んで時を過ごした。
夜が明けて、憔悴しきって降りて来る佳菜子。
翔吾が降りて来て「ああさっぱりした」と言った後で、例の前髪を払う動作をした。やはり治ってはいなかった。自分の部屋で泣きじゃくる佳菜子。そんな彼女を皆でとりなす。ようやく能力の呪縛から解かれた佳菜子。
三月に入り、翔吾はレーザーによる裂孔塞ぎの手術を受けた。だが、目に衝撃を受ければ網膜剥離を発症する可能性は高い。
戦略としては、とにかく顔を打たれないこと。
広岡はいよいよ「クロス・カウンター」を翔吾に教え始めた。広岡の指示で、日常生活において左手を右と同等に使える訓練も始める。
三月下旬のある日、広岡は令子と、その息子で現在弁護士をしている息子の公平と会食をしていた。公平と名付けられたら裁判官か弁護士になるしかない、と笑う公平。
食事も終わりかける頃、広岡は持参した書類を公平に見せた。自分は試合後心臓手術をする事になるかも知れないが、万一に備えて財産の扱いを明確にしておきたかった。チャンプの家、三人の住人、翔吾と佳菜子、それぞれのために使うというもの。
書類の話が終わり、令子が中座した時に公平が、なぜ母と結婚しなかったか、と尋ねた。返事のしようがなくて沈黙する広岡に、母が父と離婚した意味が、広岡さんに会って少し判ったような気がする、と言った。
戻った令子は、広岡の体の事を、他の三人は知っているの?と聞くと、広岡は心配させるといけないから、と否定。令子は怒った口調で「私なら心配しないと思ったわけ?」絶句する広岡。絡むな、と笑いながら助け船を出す公平。
公平が口実を作って別れたため、広岡は令子と散歩する形になった。
結婚、出産を経て弁護士の道は諦めたが、ジムを引き受けてからは、こでが自分のやるべき仕事だと思えた。だが息子の公平はボクシングには興味がなく、次世代への引継ぎは叶わない。
彼の調子はどうなの、と問う令子に、広岡は翔吾の目の事について打ち明ける。令子は、翔吾と佳菜子の仲も知っていた。
桜を見に行きたいと言う令子。まだ三分咲きの状態だが、それでもいいと言う。
運河べりのベンチに、翔吾と佳菜子が座っているのを偶然見つける令子。気付かれないよう、そっと二人の後ろを通り過ぎる。
「そういうことじゃ、ないんだ」と翔吾の言った言葉を呟く令子。試合のジャッジがおかしいから、と外国に行かなくてはならないのか、との令子の言葉に広岡がその時返した言葉。
そういうことじゃないって、どういうことだったのかしら?、と質問して、すぐに令子は「今になって訊いても遅いけど」と付け加えた。
試合も迫って来た日の夕食後、少し汗を流すという翔吾に付き合う広岡。翔吾は減量に苦しんでいた。必ず世界のベルトを取るという翔吾にあせりを感じる広岡。その様子で何かを気付く。翔吾は広岡が病院と話している内容を切れ切れに聞き、広岡が心臓に病気を抱えている事を知ったという。それで少しでも早く世界のベルトを広岡に見せたいと思っていた。
その夜、二度目のシャワーを浴びて翔吾と広岡が居間に戻ると、翔吾が今度は広岡にセコンドに付いてもらいたいと頼む。話の様子から、佐瀬ら三人が既に病気の事を承知だと知る広岡。知っていながら何も言わなかった三人に熱いものを覚える広岡。
試合当日は激しい雨だった。翔吾の肉体は明らかにウェルター級の体になっており、減量の苦しみを味わった。前日の公開計量はギリギリでパス。
第一ラウンドの開始。広岡は、翔吾の目を守るため、徹底したアウト・ボクシングを仕込んだ。それは「踊る」こと。大塚との対戦ビデオを徹底的に見て、その動きをまねた。
対戦相手の新チャンピオン、アフメド・バイエフ。翔吾の鮮やかなジャブに驚く。1ラウンドは翔吾が取ったが、2ラウンドからバイエフの突き刺すようなストレートが翔吾の顔面にヒットするようになった。
それ以降のラウンドは一進一退で双方一歩も譲らない戦い。バイエフは自分のパンチの方が強いという信念で向かって来る。
7ラウンドの中盤で翔吾はバイエフのラッシュにより、コーナーに追い詰められた。強烈なフックを受けて倒れ込む翔吾。
カウント8でようやく立ち上がった翔吾に襲い掛かるバイエフ。とどめを刺そうと連打するバイエフが突然ダウン。翔吾のインサイド・アッパーが決まったのだ。
これで勝った!と思った広岡だったが、バイエフは必死に立ち上がってファイティング・ポーズ。そしてゴングに救われた。
コーナーに引き上げた翔吾が、右の視野がどんどん狭くなっていると広岡にささやいた。試合を止めるか、という広岡に冗談はよして下さいと訴える翔吾。
第8、9ラウンド。両者の激しい打ち合い。バイエフのパンチには力がないが、翔吾も右目トラブルで微妙に急所を外していた。ゴングでコーナーに入った翔吾は、タオルは絶対入れないようにと訴えた。
10ラウンド。中盤でついに力尽きたのか、翔吾の足が止まり、両腕のガードも下してしまった。そこに襲い掛かるバイエフの右ストレート。
次の瞬間、左でバイエフの右腕を殺すようにかぶせながら鮮やかなクロス・カウンターが決まった。崩れ落ちるバイエフ。
だがバイエフは、驚異的な闘志で立ち上がり、カウント10でファイティング・ポーズを取った。
再開された試合でも両者決定打を決められず、そのラウンドは終了。
続く11、12ラウンドでも決着が着かないまま、試合は終了した。
判定に持ち込まれた勝敗。ジャッジは米国、日本、ベネズエラの3名。米国、ベネズエラのジャッジにより、翔吾の勝利が決まった。
試合後、翔吾の状態が更に悪くなり、市民病院へ直行してそのまま入院。その日のうちに手術が行われ、一応成功。
だがそれから翔吾の苦痛が始まった。術後は頭を下に向け続けなくてはならない(睡眠時も)。広岡は翔吾に夜通し付き添った。
深夜になって、断続的に眠り始めた翔吾。
目を覚ました翔吾と広岡との会話。翔吾は、あの試合で見たいものを見たから、失明してもいいのだ、と言った。誰もいないリング。レフェリーも、対戦相手も居ない、ボクサーの夢の世界。
翔吾は引退を考えていた。ベルトは返上。広岡の働いていたホテルで使ってもらえないかと頼む翔吾。
佳菜子が見舞いに訪れた。交代してチャンプの家に帰ろうとする翔吾に、俺が戻るまで死なないでください、と笑いながら話す翔吾。だが佳菜子は蒼白の顔でここに居て下さい、と訴えた。なぜそんな事を言うのか判らないまま、少し眠りたい、と病室を出る広岡。
チャンプの家に向かう広岡。翔吾の言う「あの時、最高だった」というひととき。あの時の翔吾こそ、自由の向こう側に行けた者。本当のボクサーになった。
散り際の桜が並ぶ運河べりの土手。令子と歩いた事を思い出していた。
舞う花びらを美しいな、と思った瞬間、胸に激しい痛みを感じる広岡。近くのベンチに座り、いつものニトログリセリンを探したが、瓶がない。
万一のため、セコンドに入った時にユニフォームのズボンに瓶を入れて、着替えの時、入院騒ぎのどさくさでそのまま置いて来てしまった。
心臓の痛みが激しくなり、全身から力が抜ける。
意識が薄れる中で、そういう事だったのか、と悟る広岡。
自分はただ、歩いて行きたかっただけ。何かを手に入れるためでもなければ、何かを成し遂げるためでもなく、ただその場に止まりたくないと
いう思いだけで、ここまで歩き続けてて来たのだな、と。
感想
トントン拍子に世界チャンピオンへの道を歩み続ける翔吾を襲う網膜剥離の恐怖。
そんな翔吾にクロス・カウンター教えたら、打つ前はボコボコにされる(あしたのジョーでは)。
「春に散る」とあるから、結局広岡は死ぬんだろうな、とは思ったが、実にあっさりした死に方で、まあ確かにこの形しかないか(ベッドで皆に囲まれて、なんてのはあり得ないし)。
令子の、広岡に対する思いが、息子を通じて知らされるっていう演出がニクい。恋愛という部分とはちょっと違うところでの、男女の奥深い心の交流。老年に近くなっても損なわれないもの。
そういうものを描こうとしたら、もう少し違う形が良かったのかも知れないが、形の上ではボクサー小説。けっこう欲張ったなー、という印象もあるが、まあ成功した部類だろう。
今まで数年間、新聞小説を読み続けて来たが、今回が一番毎朝読み進む楽しみを感じさせてくれた。