朝日 新聞小説「白鶴亮翔」(5) 6/8(124) ~ 7/16(161)
作:多和田葉子 挿絵:溝上幾久子
最初からの超あらすじ
(1) 2/1(1)~3/9(36)
ベルリン在住、商業翻訳で生計を立てているミサ(ペンネーム:
高津目美砂)は、日本の大学で講師だった早瀬と知り合い結婚したが、早瀬はその後帰国。残ったミサは大学に入り直して翻訳で生計を立てている。
結婚当初はフライブルクで暮らしていたが、数年後ベルリンに転居、そこで十年あまり暮らした後ベルリン内の現住所に転居。
大学時代のゼミ仲間だったパウラとロベルト。二人は恋人。
転居してすぐ知り合ったのは隣人のMさん。終戦直前に東プロイセンからバイエルン地方に引っ越したドイツ人。
(2) 3/10(37)~4/3(60)
転居間もないミサを訪れ、お祝いをくれたパウラとロベルト。
Mさんと何度か話した頃、太極拳教室への同行を頼まれた。
翻訳に取り組んでいるクライストの全集を貸してくれたMさん。
その中の「ロカルノの女乞食」にのめり込んで行くミサ。
フライブルク時代にアマチュア映画に出演した事があるミサ。
友人スージーとは、その時車椅子を借りたのが縁。
(3) 4/4(61) ~ 5/6/(92)
例の太極拳教室の体験入学にMさんと行くミサ。Mさんの動機は腰痛予防。学校の講師チェン先生は可愛らしい中国人女性。
一週間後の水曜、Mさんと共に教室に出向くミサ。
生徒女性のアリョーナ(50歳前後) 菓子をくれる気安さ。
次の週の練習を休むと言うMさん。パートナー(同性)の存在。
一人で行ったミサは練習後アリョーナに誘われて飲みに行く。夫の遺産の運用で、事業を目指す若者に出資している彼女。
「ロカルノの女乞食」の翻訳を時々行いながら思索するミサは、スージーとの電話で歯医者を紹介して欲しいと頼まれる。
Mさんの来訪。パートナーとポーランド旅行に行くという。彼が話す先の戦争での犠牲者の事。ユダヤ人より一桁多いソ連人死者。
(4) 5/7(93) ~ 6/8/(124)
生徒の歯科医オリオンさんに、スージーの受診を願い出るミサ。
アリョーナが出資している若者 ロージャとの確執を聞くミサ。
パウラ、ロベルトと映画「楢山節考」鑑賞。その解釈についてロベルトと口論になる。家にあった姨捨て伝説関連の本を読む。
チェン先生にMさんの欠席が長くなりそうと報告するミサ。
太極拳二十四式の第二「野馬分鬃」の練習と、その由来。
オリオンさんが話す、息子との軋轢(介護ヘルパーの件)
スージーから電話があり、オリオンさんの電話番号を教える。
そのお礼にと届いた本は、東プロイセンにまつわるもの。
感想
前回の(4)からの劇的な展開変化はない。ただ、彼の薔薇仲間から、Mさんの本当の名「ミヒャエル・ミーネンフィンダー」が明らかとなる(それがどうした)
郵便物転送を期待してミサはMさんに手紙を書くが、これは全くおかしな話。パートナーに連れられてうろついているのに、その都度転送先をフォローするなんて離れ業を、欧州の郵便システムがやれる訳がない(だって国を跨ぐんだから)
その手紙に返信が来た(アッと驚くタメゴロー)
これはもうファンタジーとして受け入れるしかないか(笑)
だがこの物語、Mさんが冒頭から出て来て、途中で旅に出てしまっても、こうして手紙の形で繋がりを継続させている。
以前の記述(90)を読んでも「脳味噌の相性の良さ」を口にしている。かなりの年齢差はあるものの、ミサがMさんに好意を抱いているとは言えるだろう。
ミサ自身については、結婚した後フライブルクからベルリンに転居し、早瀬と別れてから十年経ってまた転居。その間で友人と言える者はスージー、パウラ、ロベルトの3名だけ。それに対して転居後の人間関係が、太極拳教室に入った事で急に広がった。
投資家アリョーナ、歯科医オリオンさんの話が今まで語られ、今回は森でお菓子屋を営むベッカーさんの話。
またその間にチェン先生の夫(アクション俳優)の売り込み。
太極拳教室に入ったおかげて好むと好まざるとに関わらず、人間関係は広がった。でも、ただそれだけの感じで「なんか平坦」
普通4ケ月分ぐらいの超あらすじをまとめたら、大筋の方向性が分かるものだが、さっぱり掴めない。
それでもベッカーさんの描写で「襟の開いたブラウスから溢れそうな乳房・・・(156)」なんてのが出て来ると俄然注目してしまう。現金なものだ(笑)
本書の題名である「白鶴亮翔」も太極拳二十四式の第三として紹介されるが、それほど深いものは感じられない。
良く出て来るクライストの「ロカルノの女乞食」は一応ストーリーの最後まで到達。これも「賞もらったから入れました」てな事?
スージーからの本やクライストの小説が呼び水となって、東プロイセンで起きた問題を調べようとするミサ。市民図書館やらD書店。だがあっちをかじり、こっちをかじりと散漫。
そして今度は英語講師 ロザリンデが抱える幽霊問題へ移行。
こうやってダラダラと群像劇が続いて行くのだろうか・・・
それから、描かれている年代の事がずっと気になっているが、読み返しても電話は「携帯電話」まででスマホという言葉は一度も目にしていない(多分) 家電品もかなり時代がズレてる。
それから、前の戦争の終わった時、数歳だったMさんを、以前「初老」と称していた事を考えると、今から20年ほど前をトレースしている様に思える。ミサを三十代と想定すれば、作者の実年齢時代を描いているのではないか?
それにしてもテーマ不在(私には)で早や5ケ月。疲れる。
あらすじ
125
その本の題名「故郷を追われたドイツ人たち」への違和感。「追われた」にふさわしいのはユダヤ人。Mさんが東プロイセンから移ったことには「追われた」というニュアンスはなかった。
装丁、書体にも戦争、ナチスの雰囲気。
ドイツ人も犠牲者だという書きぶりの前書き。高まる嫌悪感。
だが読まずにいられない。ドイツ人の移住の歴史。その前提に立てば、追われる者の祖先も過去に先住民を追い払ったかも。
偶然開けたページを読み、また閉じるという読み方になる。
126
リルケの白黒写真が目に入る。彼がプラハ生まれとの記述で、ドイツの有名詩人を生み出したプラハはドイツなのだとの論法。
それが通るなら安部公房や後藤明生の育った町もみな日本。
以上は前書きで、その後は個人の証言が続く。
ポーランド在住ドイツ人に加えられた、一般人に対する虐殺。
ドイツ兵に家族を殺されたら、捕まえたドイツ人に何をしてもいいという暗黙の約束の「噂」が証言として挙げられている。
127
息苦しくなった私は家を出て、不在と分かっているMさんの家の呼び鈴を鳴らした。当然不在。初老男性に声を掛けられた。
彼はしばらく留守だと話す相手。手に小さなシャベルを持つ。
薔薇の栽培で知り合いになったというミュラーさん。
長い間知りたかったMさんの名が、その会話でミヒャエル・ミーネンフィンダーと判明して拍子抜け。
私は新しく越して来た者と認識されていた。薔薇の事で知りたければ教えるとの言葉に礼を言って家に戻り、改めて外に出る。
128
Mさんの名を反芻。ミーネンは鉱脈、フィンダーは見つける人。
だがこれからもMさんと呼び続けるだろう。
家に帰って本の続きを読む。これを読むのがやめられないのは、Mさんが子供の頃暴力を受けたかも知れないとの思いから。
間一髪で助かった者。収容所への行進の途中で殺された者。
先が読めず本を閉じる。Mさんと話がしたいが電話も分からず。
郵便物転送を期待して、彼宛てに手紙を出そうと思いついた。
129
手紙の下書きで2Bの鉛筆が紙に触れると、高校時代の交換日記を思い出した。村田海子というクラスメート。祖父母が上海帰りだったのでつけられたという。「引き揚げ」にまつわる話を祖父母から聞いたいきさつの事だけ良く覚えている。
Mさんへの手紙を鉛筆で書いたのは、プリントアウトでは失礼との思いから。だが書体に悩む。とりあえず活字体で書いた。
130
以下意訳。
太極拳を始めるきっかけを与えてくれた事への感謝。以前聞いた東プロイセンの話が忘れられない。友人がその系統の本を送ってくれたが、いい本だと思えない。だから手紙を書いた。
東プロイセンで暴力を受けたドイツ人たちの証言。それが信用できないので他も調べるつもりだが、同様の経験をしたあなたは暴力を受けたか?また偏見、怒りなく証言する事は可能か?
手書きだと子供っぽく見えるが、自分の中のもやもやは解消。
翌朝目覚めると、朝の光を受けてコップがきらめいていた。
131
顔を洗って鏡を覗く。夜更かししたのに五歳は若く見えた。そしてコーヒーを飲みながら昨夜の下書きを清書した。
フライブルクに居た頃、私の顔は輪郭も輝きもなかったが、自主映画の効果で目力が湧き、口角も上がって顎の線もはっきり。
今はもうレンズに写されることもなく新居にこもっている。
手紙という古風なトンネルで人と繋がりたい?
郵便局に行って手紙を出した。家に戻ると、頭の中が手紙に抜かれた様に放心。助けを求めるようにクライストの本を開く。
書くという、文字を生み出す作業の充足感。
132
侯爵が幽霊の物音を聞いてしまったところまでが前回の訳。
伯爵夫人の問いに、怯えるまなざしの夫。驚愕の夫人は、公表する前に再度使用人と共に調べたいと夫に申し出る。
この作家の、文章を切らない息継ぎし辛い文体で、チェン先生の呼吸法を思い出す。ゆっくりと十数えながら息を吐き、慣れたら次第に伸ばして行く。今は十二までしか出来ない。
翌日の夜、伯爵夫妻と使用人は理解を越えた幽霊音を聞く。逃げ出したいが使用人の前では体裁を繕う。訳が変だがやむなし。
133
伯爵夫妻は城を買いたいという訪問者だけでなく、使用人にも幽霊の事を知られたくない。それは一旦認めたら一人の人間の死を記憶から抹消出来なくなるから。
伯爵は罪には問われないだろう。自城に忍び込んだ老婆の寝場所を変えさせただけ。作者もそれらを淡々と描くのみ。
クライストはなぜホームレスの老婆に注目したか。興味が湧き、彼の伝記を読むため、太極拳学校そばの市民図書館に出掛けた。
利用者カード作成には手続き必要であり、とりあえず館内読書。
無精髭の男、大型の本を抱えた女性を横目にKの棚を探す。
134
それは伝記の棚にあった。聞きかじりで、クライストが心中で命を絶った太宰治の様な男だとの思い込み。実際は、一人で死にたくなくて連れを求める心境に近かった、と伝記作者は書く。
その作者はまだ三十歳だった。また、クライストはマザコンではなく姉コンだったという。依存し合い受け入れ合って来た。
時間が過ぎている事に気付き、慌てて本を戻して太極拳学校に駆け付けた。先生の前に立っている皆の後ろに紛れ込む。
135
「アリョーナ・イワーノヴナ、始めますよ」アリョーナに向かって父称込みで呼んだ先生。窓を眺めていた彼女がハッとする。
その日は二十四式の第三式を習った。「鶴が羽を広げる」の意。
簡単に手を広げるのではなく、肩からのしかかる相手をはね返す意識。稽古が終わっても、その気持ちが継続した。
アリョーナの不機嫌そうな顔に気付き声をかけた。
ロージャに傷つく事を言われたという。
136
新しい融資を断ったら、老婆の懐で金が減る一方で、有望な青年に資金のないのが理不尽だと言われた。怒りのあまりスプーンを投げたら彼に当たって瞼を切ったという。
その時、ベッカーさんが近づいて来て甘い香りの袋を開けた。
勧められたのはビスケット。前回練習の馬と、今回の鶴をかたどったもの。さっくりとして甘さ控えめ。
「ローズマリー・ベッカー」という紙袋のロゴを見てオリオンさんが店の事を聞こうとしたが、不便な森の中で・・と手を払うベッカーさん。
137
店に来てほしくない様子のくせに、別れ際にくれた箱には住所(グリムの森通り1番)まで印刷されていた。
帰路で歩行器を押す銀髪女性とすれ違った。心配して声をかけたら「これを見てくださいな、捨てられた月です」と歩行器の小物入れを顎で指した。鏡に満月が映っている。上に月はない。
歩き去る老女。「忘れられた老女」の詩を思い出す。
家に帰って早速「白い鶴が羽を広げる」のフォームを調べた。
「白鶴亮翔」豪華な邸宅の様な字面。
138
日本語サイトだったので、カタカナの表音「バイ・フー・リャン・チィ」と日本語読みの「はっかくりょうし」の記載。
チェン先生はただ「鶴」と言ったので白鶴の白が蛇足に思えた。
滑り止めの大学を受けた時、なぜか「蛇足」の事が気になり出し、そこからの連想で足の生えた蛇が走るのが見えて、挙動不審を監視人に咎められた。その大学には結局落ちた。
更に調べると「赤い鶴」というブログを見つけた。その記載だと二十四式太極拳は、毛沢東が作らせた新しいものらしい。
139
伝統的なものは時間がかかり過ぎるため、労働者向けに六分足らずで身体のスイッチを入れる二十四式が生み出されたという。
Mさんからの返事は予想外に早く届いた。
まず手書きでない事の詫び。手が震えてうまく字が書けない。それよりも詫びなくてはならないのは説明もなしに旅に出た事。
今リトアニアにおり、次はラトビアに行くらしい。
パートナーの彼は戦後、ドイツでもポーランドでも差別を受け、ついに自らをプルーセン人の子孫だと主張を始めた。
あなたが読んだ東プロイセンについての本は信用出来ない。
ドイツ人の身内で戦後ポーランド人に殴られた人はいたが、歴史はもっと長い目で見なければならない。
140
空から鶴が人間界の争いを見て、愚かだと思う気持ちが必要。
戻ったら私の本を貸します。エンジニアでしたが歴史関係を読むのが好き。姉は建築を通して戦争の記憶に形を与えました。
とりあえず今回はここで終わりにします、と手紙は終わった。
取り残された私は、その周りだけ光るランプを眺めた。
電話が鳴る。先ほどは黙殺していた。スージーからだった。
手紙の事を話す。旅行に出た隣人からの返信。
141
スージーとは、鶴の様に俯瞰で歴史的証言が出来るかとの話から様々に話が発散。電話の後「白鶴亮翅」の型を鏡の前で作る。
その動きが気にいったと翌週チェン先生に話す。その日は早く教室に着いたため先生に出身地を聞いた。「チャンチュン」と聞こえ書き方を考えていると、突然私の映画出演の事を聞かれた。
エキストラみたいなものだと返すと、夫が映画出演に未練を残していると言う。私の事をネットで知り、コネがあるなら助力が欲しいと言った。コネはないと返事した私。
142
更に続ける先生。金を儲けたいのではなく、出演して観客に見てもらいたい。それで映画関係者に訊くだけでも、と重ねる。
先生の出身地の漢字を聞くことなど忘れてしまった。
その日は鶴が羽を広げる動作の練習で終わった。アリョーナもこのフォームが気に入ったようだが、ハイヒールで不安定そうに見える。先生は、太極拳は闘う技である事を忘れない様にと指導。
稽古を終えた更衣室でオリオンさんが寄って来て、スージーが治療を始めた事を教えた。バリアフリーを自慢するオリオンさんを無視してアリョーナが、ロージャの金銭要求を訴える。
今日のツッコミ
この練習場は昔ダンスホールだったらしいから床は大丈夫かも知れないけど、太極拳の練習するのにハイヒールはオカしいでしょ。更衣室まであるんだから、履き替えなさいよ!
143
オリオンさんが年下の恋人を暗に揶揄すると、クレアが日本語でそれをヒバリと言う、と口を挟む。しばらくして気付き、それはツバメと言うと訂正した私。更にカラスの母親が子供を可愛がらない事や、カッコウが他の鳥に卵を育てさせる話などが続く。
私は「七つの子」の歌詞を引き合いにしてカラスの愛情を説明。
アリョーナは、若い恋人ではなく支援しているだけと抗議。
オリオンさんは「そういう応援はいいことだと思います、でも」
と言葉を切った。息を止めて続きを待つ私。
144
オリオンさんが若い人の、お金だけが空から降ってくればいいとの思いや憎しみについて話すと、アリョーナは怒るどころか抱き付きそうな勢いで男の言動を訴えた。
更にオリオンさんが最近の強盗の、警察を装って家族構成や現金の有無を確認する手口を話す。不謹慎と思いながら皆笑った。
家に帰ろうと外に出てから振り返ると、チェン先生が窓際からじっと私を見ていた。月を見上げる振りをして帰った私。
145
プルーセン人の痕跡をパートナーと共に追うMさんに返信する前に、そのプルーセン人を調べようと思った。その語源は「ロシアの方向へ」とも言われるが不明な事が多い。
インターネットは川幅の広い濁流の様なもので、一寸法師の私は翻弄され、そのうち何が知りたかったかさえ忘れてしまう。
それで深夜までやっている、大きなD書店に行こうと思い立つ。
うちからは電車を乗り継がなくてはならない。
146
夜一人で出掛ける習慣はなかったが、こうやって町に出て本屋に行くのはわくわくする。シュプレー川に町の灯りが反射するのが駅から見えた。駅を出て大通りを行ったところにD書店はある。
店内は日記帳、筆記用具のほかCD、DVDも売られている。
三階に旅行書、辞書、専門書などがあるが古代史、中世史、民族史などの中に「東プロイセン」はどこにもなかった。
147
ソ連史はあるのに東プロイセン史がないのは、対象人数の多さを考えると納得できない。他の棚も探したが東プロイセンからの引き揚げを扱った本は見つからず。
諦めかけたが、宗教書の棚に「プルーセンの謎」という本を見つけた。開くと地蔵もしくは太陽神の様な石像の写真。
前書きを読んでみると、著者のプルーセン人に対する惚れ込みが感じられ、多少信憑性が怪しかったが買って帰った。
帰り道で急に空腹に気付き、先週ベッカーさんにクッキーをもらったことを思い出した。
148
家に帰ってバッグを開けるとクッキーの箱が見つかった。
そこでジャージを洗ったまま忘れたのを思い出す。洗濯機を開けると「洗い終わったらすぐ出して干さんと腐るで」
ベルリンで買ったのに何で関西弁? 訊くと炊飯器に教えてもらったのだという。留守中に家電同志で言葉を教え合っているとはヒトより優秀。多言語民族がいる環境でも、意外に言葉の交流の機会は少ない。母国後会話の中にドイツ語が混ざる事はたまにある。早瀬ともそういうことはあった。
149
「わたし、クンストラー・ゾチアールカッセ(芸術家社会保険)
に入ろうと思うんだけれど」そういう種類の保険は日本にないので直接言葉が出る。フリーの芸術家が入れるもの。早瀬が顔をしかめたのは、私がドイツに留まるつもりだと気付いたからか。
曜日感覚のない毎日には、週一度の太極拳教室が唯一の救い。
約束の時間に遅れる恐怖から目的地に早く着いてしまう事がある。その日は時計を忘れたのでどれ程早いかも知らなかった。
150
更衣室には誰もいない。そこにやって来たチェン先生がお茶に誘ってくれた。そこは事務所に使っている小部屋。
煎れたお茶を渡しながら先生は私に、時々転ぶのでは?と聞く。
お見通し。歩く時に足の持ち上げが低い。先日窓から観察していたのだと言う。見られていた理由を合点した。
転ばなくなる答えは野生の馬の中にあるという先生。
151
ベッカーさんが部屋を覗き、中国茶にぴったりのお菓子があると言って箱を出した。狐が丸まった様なずるそうな焼き菓子が九個並ぶ。勧められるままにそれを食べる私と先生。どこか月餅を思わせる。前の様に、箱に箱に住所が印刷してあり、今度買いに行きたいとカマをかけると、来るほどの店ではない、ときっぱり言い切る。それなら何故住所を印刷した箱を持って来る?
152
翌朝になってもベッカーさんの店が気になり、地図を調べると「グリムの森通り」は実際にあった。急に行ってみたくなった。
空想を畳み翻訳の仕事に取り掛かる。「ロカルノの女乞食」の老女は魔女などではなかった。足跡や溜息だけの「耳」の幽霊。
その幻聴は妻や使用人にも聞こえた。複数が聞けば現実なのか?洗脳なのかも知れない。小説内で期待されたのは一匹の犬。
153
三日目の夜、真実を突き止めるため伯爵と夫人が客間に行く時、思いついて飼っている犬を連れて行った。
お喋りで時間潰しをした後の十二時、おぞましい物音がまた聞こえた。目を覚ました犬は、まるで誰かがいるかの様に吠え、あとずさった。伯爵が剣を振り回している間に夫人は逃げ出し、町に向かう馬車を用意させた。城が炎に包まれるのを見た夫人。
154
伯爵が興奮のあまり火をかけた。惨めな死を遂げた伯爵の骨は、かつて彼が老婆に立てと言った部屋の隅に置かれている。
自分の訳している小説がら逃げようと立った時に、よろけた。
コート姿で外に出た。炎上する城で心がざわめく。犬を見た。匂いを追えばベッカーさんの店に辿り着くかも知れない。
環状線の電車に乗っていた。迷う気持ちに好奇心が勝った。
電車を降りて、たった一本走るバスに乗る。乗客は自分だけ。
バスを降りると魔女のイラストの標識があった。「グリムの森通り」への案内の様だ。
155
午後で人も鳥もいない。しばらく歩くうち、ベッカーさんが来てほしくない態度だったのを思い出す。だが歩みはそのまま。
知らないうちに国境を越えてしまう想像(冷戦は終わっているのに)だからちょっとした散歩でもパスポートは手放せない。
空は暗く、引き返そうかと思った時に、赤い三角屋根の家。
思わずお菓子形の呼鈴に触れ、中からベッカーさんが出て来る。
「あら、本当にいらしたんですね」迷惑そうな、嬉しい様な顔。
「すみません。お菓子のためなら長い道も苦にならないんです」と嘘を言った。
156
くれる菓子は喜んで食べるが、自ら評判の店を訪ねる事はない。
だが秘密や謎には敏感で、ベッカーさんの示す矛盾に惹かれた。
ベッカーさんの薄い笑い(見透かされている?)かつては大人も子供も来ていたが、ある事件が起こって以来来なくなったという。いつかまた信用が戻るとも言う彼女。
状況を楽しむ決心を固めた様な彼女は、お茶を用意しに行った。
前菜、主菜、デザートを選ぶよう言われた私(みなお菓子?)
ベッカーさんがお茶セットのお盆を持って来る。官能的な雰囲気。襟の開いたブラウスから溢れそうな乳房と、ほどいた髪。
メルヘンの世界に目が騙されているのか?
157
訊かれるままに真っ黒なケーキを選んだ。それはカラスの母さんが子供のために焼いたものだという。複雑な味がした。
店が不便な所で驚いたでしょうと言うベッカーさん。それに返事しても噛み合わない会話。他のケーキも勧められる。春になると摘んだ花をケーキに乗せて飾ることもあるという。
「花を摘むため町外れに店を開いたんですか?」直球すぎた。
158
彼女の話す理由。かつては町の真ん中に店を出してうまく行っていた。近くにチェーン店が出来ても繁盛は続いたが、家主に突然家賃を倍に上げると言われ裁判を起こした。それが原因で体調を崩し、訴訟は引っ込めてここに移った。銀行融資が足りず、改装はDIY。心配したが、ハイキングコースがあり口コミで繁盛。
形の悪いケーキを子供に無料で配るうちに、子供が良く来る様になり、雑誌のインタビューも受けた。
159
だがそうやって注目を集めるのを妬まれた。店で子供に暴力をふるっていると警察に通報されたという。実際は、乱暴な子が他の子に唾をかけたのを叱った時皿を割られ、それで腕を掴んだだけ。だがその子供が母親に、店で傷つけられたと言ったので警察ざたになった。結局その話を警察は取り合わず。
だがその後ネットで魔女扱いされてしまった。
私に何かできることがあれば、と声をかける。
160
私がケーキを食べ終わるとベッカーさんから甘みが消え、別れの挨拶もそっけない。バス停への道。夜に向かう背後の森。
やっとバスが来た。人恋しさで挨拶すると、運転手はぼそっと「ヴァルトアインザムカイト」それは”森の孤独”の意味。空耳だったかも知れない。孤独に森で暮らす宗教者を指す言葉。
家の鍵を開けようとすると中から電話の音。スージーだった。
彼女に訊かれて、森のケーキ職人の話をした。悪い子を叱ったらネットで叩かれた・・・
161
その魔女は誰?と聞かれて太極拳学校の生徒だと返す。彼女の電話は歯科医のオリオンさんを紹介してくれたお礼。
オリオンさんが、ドイツ語より英語で話す方が機嫌がいいとの話から、英語が流暢なフィリピン人のロザリンデに話が飛ぶ。この地で英語を襲えているが、最近顔色が悪い。
次の週、ロザリンデの顔を改めて見ると、頬がこけ眼が大きい。
丁度来たオリオンさんが彼女に「病気したんじゃない?」
ロザリンデが目を伏せて「心配事が一つあって」
今日の一曲
The Crusaders Spiral
ゴキゲンになる一曲♪