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新聞小説「また会う日まで」(14)池澤夏樹

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朝日 新聞小説「また会う日まで」(14) 10/1(413)~10/31(442) 
作:池澤夏樹 画:影山徹

感想
敗戦の年(1945年)の正月から広島への原爆投下までが描かれる。
空襲の東京を避け、岡山県笠岡へ疎開した水路部第二部と行動を共にした秋吉一家。
疎開前の聖路加病院(戦時は大東亜中央病院)での日野原医師の描写。オウム事件の時には病院を解放して治療にあたり注目された。2017年に105歳で死去。
疎開してからは、子供が見つけた料理本の話やら、Mが送って来た沖縄陥落の話には、陛下が食べたイラブー汁の話。

嘆くわりには緊迫感がなく、疎開者の気楽な記述。
そして武彦からの男児誕生の報告。作者本人である「夏樹」誕生。

利発そうな写真が二枚続くご愛敬。しかしこの敗戦一ケ月前でも国内郵便事業が維持されていることに驚く。
そして武彦自身は仕事がないと嘆く。どうやって養うかの前に「どう生き延びるか」だろ。
命の危険から距離をおいた場所で戦争を捉えているのは利雄も同じ。
そして広島への原爆投下。

利雄自身は敗戦の二年後に死んでいるから、終わりは近い?

 

あらすじ
東京から笠岡へ 1 ~ 

主が生まれて1945年目の正月。

主への感謝と共に、Mに話した事の先を考えた。
愛によって生きよと説くイエス。

愛の主体は民族ではなく一人一人の人間。
旧約聖書によるナルドの香油の話。過越祭の六日前、一人の女が高価なナルドの香油でイエスの足元を濡らし、自らの髪で拭った。

香油を金に代えれば貧民が救われる、とその行為をなじったユダ。
我が葬りの日のために行ったこと、と弟子をたしなめたイエスは個人として女を見る。
信仰はどこまでも個人の魂に関わる。

空襲警報は毎晩のこととなり、皆それに慣れてしまった。
動員学徒の病欠をくさす記事が出る。敵に打ち勝つための体力、健康管理の要求。ここ四ヶ月の病欠理由統計表と欠勤者数の記載。工場への対策促進。これはまだ科学的。
だが伊勢神宮空襲に対する小磯首相の謹話はどうだ。
道義なき敵との戦いにおいても、断じて米英を撃砕せんことを国民各位と共に誓ふ、ものであります・・
陛下の前で恐懼しようとも、これが現実。爆弾は神仏を区別しない。

久しぶりに水路部へ向かう途中、聖路加の日野原医師に会った。

うちの家族にはなじみの病院。ここも今は大東亜中央病院と名が変わり十字架も外された。しばし立ち話。
空襲警報がなるたび子供を地下室まで運ぶのに、竹で工夫して橇(そり)で階段を下りる様にしたら、子供らが楽しみにしているという。

そんな話に安心を覚える。
私たちはこの病院に全幅の信頼を置いていた。

ここで治らなければどこでも治らない。

日野原医師との話は続く。

病院名を変えられた様に、院内で使う言葉も英名禁止。
いくつもの例を挙げて嘆く彼だが、聞き耳が心配。

国民みなが疑心暗鬼。多くをアメリカに学びながら、戦争を始めた事に対する問いに答えられない。
あちらが進んでいる事の例がペニシリン。

碧素の事だ。噂は聞いている。
関東大震災時の、米陸軍の支援規模の大きさを話す日野原医師。
産業の不足を精神力で補う。科学者から見れば無理な話。

家族が並ぶ朝食の席。飯には麦や稗が混じり、塩湯に近い味噌汁。
洋子がおかしな夢を見たという。何人も連なって走る自転車。

家々の前の人形。昨日の夢も変だったという。同級生に言われて行った寺に何百人も集まり、その同級生 酒井さんの得度式をしていた。

特に心配はしておらず、ただ楽しいだけと言う娘。

三月十日の未明に空襲警報。

家族を防空壕に導いた後空を見上げる。何か様子が違う。

飛来するB-29の高度が低い。高射砲は一向に当たらず。
先日の三月四日に襲来したB-29は百五十機だったという。

私は防空壕に入った。心配顔で聞くヨ子に、敵情視察していたと返す。

しばらくして再び防空壕を出る。

遠くの空が染まっており、かなり広範囲の爆撃。
築地の水路部が心配で翌日行ってみた。九品仏から大井町に出て、込み合った車内で聞くと浅草が焼けて観音様も燃えたという。

電車は休みながら浜松町まで進んだ。ここからは徒歩で水路部まで。

ホームに降りると焦げた臭いが強く迫る。

浜松町の駅舎を出ると、呆然とさまよう人々の群れ。

大正十二年の関東大震災の時に見た惨状を思い出すが、こちらは天災ではなく人間がふるった破壊の力。
汐留駅で物資が盛んに燃えている。

ここはもと新橋駅だったが貨物専用駅に変更された。
正確な爆撃の精度。昨夜B-29が低空飛行だったのはそのためか。
下町への正確な焼夷弾投下も冷静な判断の結果。私は戦慄した。

汐留駅から水路部に向かう。アメリカはその場所を重要機関だと知っている筈であり、爆撃の対象になり得る。

本庁舎の建物が無事なのにひとまず安堵。だが構内には煙。
防空警戒隊の責任者が私の姿を見て泣き出した。感情の高ぶり。
落ち着いてから被害状況の報告。

怪我人は三名ほどだが、在宅職員の安否は不明。
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こういう事態を想定して水路部は各地に分散疎開したものの、本拠の被災は辛い。
焼夷弾というものは始末が悪いと話す防空警戒隊の男。中味はゼリーにしたガゾリンであり、水をかけても消えない。

焼夷弾は対民家用の爆弾。日本の家屋が木と紙で出来ているために開発された、人間とはそういう事をする。
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戦況の悪化を予想して敷地内に七百五十名収容の防空壕を作り、機能分散として世田谷に玉川倉庫、印刷関係に芝浦分室を作った。
更に、遠く岡山の笠岡高等女学校の校舎を借り受け、第二部の業務を移す事にした。この部は第三課:水路測量、磁気 第四課:天文と暦計算 第五課:海象全般となっており、ここで揃えたものを第一部が配布物に仕立てる。
状況悪化に反し作業量は増し、女子挺身隊として四百五十名の未婚女子を受け入れた。
岩手県の水沢に設けられた分室は緯度観測所であり、木村栄博士が地球の極運動にZ項を導入する大発見をした。
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疎開後は空になった水路部。私は近くの聖路加病院に行ってみた。
そこは想像以上の大混乱。何百人もの負傷者。

声をかけられて手伝いをしていると日野原医師から声をかけられた。私にしがみついて、会いたかったと言う。
罪をおかしつつあるとの言葉。怪我人の選別をしている。

助かる見込みのない者の放置。
それは信徒として許されないと言って泣きだした。
救える者をまず助ける。あとはすべて主が見てくださる、と私。

少し落ち着いた彼。
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五月の末、日野原医師から手紙と共に米軍が撒いたビラが送られて来た。聖路加病院の写真と「米国より日本への賜物」の見出し。

本文:この戦争を始めたのは我々でなく日本の軍部。必要とあらば君たちを全滅に出来るが破壊は好まぬ。平和の象徴がそちらに建てた病院。我々を恐れるより陛下を裏切った軍部を恐れよ。
手紙によればここが安全だとして人々がたくさん集まり、特高や憲兵も来るという。
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そのビラをヨ子に見せると、あの病院にだけ爆弾をおとさない様に出来るかと聞いた。
それを実現できる技術について説明すると、精密に仕組まれて何万人も焼け死んだことに鬼畜米英の言葉が身に染むというヨ子。

戦争を止めようとする者はいないの?
そこにも戦いがある。首相が鈴木貫太郎さんに替わり、海軍大臣の米内さんと共に和平を目指すが、問題は陸軍大臣の阿南。

徹底抗戦の姿勢。暗殺も起こしかねない。
「愚かな人たち」との言葉に最後は御聖断だろう、と私。
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六月、第二部が岡山県 笠岡に疎開する事が決まった。

私も家族を連れて行く。
それが決まった頃、Mから会いたいとの連絡が来た。

いつもの店は焼けて今はない。
渋谷の忠犬ハチ公の前での待ち合わせ(ただ犬は供出されている)
遅れて来たMは、革の鞄を大事そうに持っていた。柄と手首を紐で結んでいる。
この戦が終わった時に歴史を書くための資料だという。預ろう、と私。
だが紐をほどいて結び直そうとするのを憲兵が見咎めた。

確かに怪しい行動。
私は身分証明書を出して「なんなら海軍省に来るかね?」
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第二分室とした笠岡高等女学校でも、女学生たちの手で天文暦作成の業務となろう。水路部の仕事は目前の作戦だけでなく「いつか誰かの役に立つ」を標語としている。 
リンドバーグが「セントルイス魂号」と名付けた様に我々にも「水路部魂」がある。それは全世界共通。

1912(大正十)年には国際水路局の一員となった。しかし国際連盟脱退を経て1939(昭和十四)年、国際水路局からも脱退。
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水路部第二部疎開に伴い、私も家族を連れて岡山県笠岡に移る。
軍の列車といえども戦時でダイヤもないに等しい。

だが鉄道当局の復旧努力には賞賛。
引っ越しは軍務前提で兵士が搬出を行ってくれた。列車も専用の客車。心苦しいくもあるがそれもまた偽善か。汽車はしばしばの停車を繰り返しながら西へ進んだ。

何度も往復した路線だが、今回は途中の笠岡で降りる。
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笠岡の水路部第二分室が機能し始めた。

機材を設置し、不足のものは学校から借りた。
食料事情も東京よりは良くなりヨ子も安心。

洋子も地元の女学生と共に推算に従事。
小高い丘に城の跡があり、町の歴史に詳しいというこの学校の村上先生を紹介された。村上水軍が陸の拠点として作ったものだが、戦国時代が終わって廃城になったという。
村上さんも水軍の末裔?との問いには
「偶然でしょう。血などいくらでも薄まる、もし私がそれを言えば見栄でしかない」
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笠岡が海に面しているのが有り難かった。

またこの町に軍事施設はなく、まずは安心。
村上先生にこの地のことを聞く。元は瀬戸内航路の潮待ち港。

漁港としても栄えたという。岡山県の高梁という町に、十五里を十二時間で走って魚を届けた。
それは「とと道」と呼ばれたが、昭和になり大きい船の運用になって廃れたとの事。
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村上先生から聞いた城の話をヨ子にした。

水軍が作った城が戦を経ず取り壊された。
それを聞いて、島原の原城という不幸の極みの城もあったというヨ子。
島原の乱で何万人もの切支丹が殺された。

「日本もああなるのですか」との問い。
喧嘩で殴られ続けて、なぜ降参と言えないのですか?

「意地があるから」
命と意地とどちらが大事ですか、の問いには答えず。
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洋子が引っ越し荷物から「高等料理法」という冊子を持って来た。明治十六年の本。それをヨ子に見せてからが大騒ぎ。

我が家は一晩この冊子に熱中した。
例えば「子牛のカツレツ」材料、作り方の手順。

油で揚げ、キツネ色になるを度として出すなり・・・
「うわーっ!」「食べたーいっ!」と子供たちが騒ぐ。

「その日がきたらね」とヨ子。
デヴィルド・オイスター。牡蠣のバター焼き。

「かきってなあに?」と輝雄が聞く。
普通は生で食べると聞いて「げっ」との反応。

練習航海の時サンフランシスコで食べた思い出。
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教会関係の人からもらった本だが興味なく書棚に突っ込んでいた。

それが食べ物のない時期に出現して悩ませる。

由来は野村高治という人が残した原稿を子孫が復刻した。
野村は宣教のために来日したマダム・ペリーに雇われ、住み込みで料理を担当した。
彼女の縁で作った料理を帳面に残した。才能もあったのだろう。
武士の生まれで女の家の料理人になる。この人物に好感を持った。
いちじくのプッディング。材料、作り方。


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七月に入った頃、Mからの封書が届いた。
沖縄の陥落。六月二十三日を以て沖縄戦は終結。米軍が四月一日に数万の大軍で上陸。
日本軍はよく戦ったが、結局は那覇と首里を落とされ南に退却。
住民の住む大日本帝国の領土での初めての地上戦。そして敗れた。三月から六月までの九十日。

二十万が死んだとして、一日あたり二千百人を費やした時間稼ぎ。
我らの一年先輩で海軍陸戦隊を率いていた大田実さんが自決。
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Mの手紙に書かれていた大田実さんの電報の写し(六月六日打電)
沖縄の実情について、県知事の依頼はないが看過できず御通知。県民に対し殆ど顧みられていない。青壮年の全部を戦闘に捧げ、老幼婦女子は窮乏生活を甘受。更に作戦の大転換での住居変更においては、輸送力なく皆徒歩で雨中黙々と異動。陸海軍の沖縄進駐以来勤労、物資の強要にご奉公の念で応えたが、焦土が残るのみ。食糧も六月まで保たず。斯く戦えり県民に対し、特別の御高配を賜らんことを。
―電文には「天皇陛下万歳」はなく沖縄の民のことばかり。
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沖縄陥落を、その出身の漢那憲和少将が嘆いているだろう。私より十五期上の大先輩。
漢那さんの名が知られたのは、今上陛下が皇太子の時の欧州行啓時、御召艦「香取」の艦長だったため。1921(大正十)年三月に出港、九月に帰った。

一番の思い出は行きに寄った沖縄で、首里など見られた折りに召し上がったイラブー汁を「大変においしい」と言って戴いたこと。

イラブーとは燻製にした海蛇。
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私は沖縄を知っている。台湾からの帰りに那覇へ寄港。

Mも一緒だった。
休暇を取り数日観光をした折り、案内の謝花朝栄青年に漢那少将が食べたというイラブー汁が食べたいと申し入れた。

彼の案内により料理店でそれを前にした。
鰹節の濃い出汁。イラブーをかじると珍味というより滋味。

その後は首里城へ。
王宮であり流麗な建物。あれが全て失われた、とのMの手紙に嘆く。
27
笠岡の生活が落ち着いた頃、帯広の武彦から電報が届いた。七月七日に男児が生まれたという。

妹トヨの孫、私には又甥になる。やがて武彦からの手紙が届いた。
夏樹と命名したとのこと。夏に生まれた事と、親友で詩の仲間 中村真一郎の詩「夏野の樹」があり、子の名にふさわしいと思った。それに島崎藤村の本名が春樹――
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武彦の手紙に同封された、母となった澄が書いた詩。
なつきへ と題して生まれた息子を四行づつの文節を連ねて現した。
ごらん なつき 空の向こう・・・・

ヨ子の話では行の終わりの母音を揃え、韻を踏んでいるという。
私は、英語の授業で暗唱したスティーブンソンの詩を思い出した。
29
武彦の手紙は続く。空襲の話。帯広でも空襲があったという。生まれて一週間の夏樹を抱いて防空壕に入った。煙はまさに恐怖の臭い。
将来への不安。自身が学んだフランス文学での仕事などなく、放送局でも人を雇う余裕はないと言われたという。

先日、妻が書いた詩の文末が目に入った。
なつきよ うけよ 天の 地の幸を  僕も同じ思いです。
30
八月六日の昼頃、本省から電信が入った。
「ヒロシマニシンガタバクダン シナイゼンメツ カクジケイカイセヨ」
爆弾一発で市内が全滅した。本当にあれを作ってしまったのか。

原理はわかっている。
警戒のしようなどない。桁の違うエネルギー。

それに放射線のことがある。
マダム・キュリーが放射性物質で亡くなったのを論文で読んだ。
放射線は広島の人々の体を貫いただろう。

後にはマダム・キュリーと同じ苦痛が待つだろう。
 

 

今日の一曲
Celtic Woman - Amazing Grace


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